モノサスという会社は、そんな疑問についての答えが知りたくてはじまりました。
世の中にはいろんな会社があります。
誰もが知る有名な会社。世の中をあっと言わせるようなイノベーションを起こす会社。社長とその家族が生きていくためだけの小さな会社。無名だけど夢を追い続ける会社・・・。
どのあり方もきっとそれぞれに正しいのだと思います。でも、自分なりに「どの在り方が一番しっくりくるのだろう」と世の中の会社を見たときに尊敬できる会社や、すごいなぁと思える会社はたくさんあるけれども、自分が「ずっと所属していたいなぁ」と思えるような、ピタッとくるものは当時の私には見つけられませんでした。
ところで、人はつきつめると「しあわせになるために生きている」のだと私は思っています。
そうだとすると、「しあわせになる」とはどういうことなのかと考えなくてはなりません。いまのところの私たちの答えは、「これでいいのだ」という感情を持つことなのではないかと考えています。「これでいいのだ」という言葉を発するのは、簡単なように見えて、実はとても難しいことだと思っています。
仕事なり、生活なりを、その人なりに考え、実践し、考えなおし、またやってみてという、トライアンドエラーを繰り返し、そのプロセスの中で、自分の身の丈を知り、それを満たす術をも手に入れた結果、「これでいいのか?」や「これでもいいのだ・・・」という、似て非なる言葉を否定できるようになった人だけが発することのできる言葉なのではないかと思うからです。
しかし、そう気づいて自分のまわりを見回してみたところ、「これでいいのだ」と言いながら暮らしている人がとても少ないように見えました。もちろん私もそのひとりです。
ひょっとして会社が「これでいいのだ」と言える確率を上げるための仕組みとしてうまく機能すると、それはとても素敵なことなんじゃないかと思いはじめたのです。
野生で生きる象と、動物園で生活する象では、野生で生きる象の方が倍以上の寿命を持つそうです。
外敵に襲われることなく、食べ物も不自由なく与えられ、もしも病気になれば獣医が適切な治療までしてくれる動物園の象の方が、長生きしそう、もしくはせめて野生と同じくらいの寿命を持ちそうに思われますが、事実はその逆なのです。
外敵に襲われる危険性や、食べる物が得られるかどうかといった外的な要因よりも、「どこに行くか、なにを食べるか、なにをするか」といったことを自分自身で決められるかという内的な要因の方が、寿命という生命そのものの長さをも左右するのだそうです。
このことは、人に限らずありとあらゆる動物にとって、自分が選択権を持っているかどうかが幸福感において最も大きな要因のひとつになっているのだということを教えてくれました。
つまりは自分で自分の身の回りのことを決められるかどうかということが重要なのです。
でも、それを私たち人間にあてはめた時に、そのまま解釈してしまうと、「決裁権を与えられたエライ人だけが幸福度が高まる」というちょっとつまらない話になってしまいそうです。
決裁権というものが「他人から与えられるもの」なのだとすれば、上記のような解釈になってしまうのもやむを得ないのかもしれません。
しかし、決裁権が「自分でも与えられるもの」だったとすればどうでしょうか。
きっと、自分や周りのものごとに対する肯定感や、人生に対する幸福度は今よりももっともっと増えていくのではないかと思います。
どうすれば自分に決裁権を与えられるのだろうか・・・。
この問いが、私たちモノサスの出発点でした。
自分自身に決裁権を与えるというのは、言葉として少し大げさな気もするので、「自分で選択する」と言い換えてみることにします。
仕事。暮らし。それらを通して生きること。
そんなことについて、自由に、自分で選択することができれば、それはきっと素敵な人生だと思います。
そして、自分で選択するために必要なことは「他人や世間から与えられたものではなく、自分のモノサシをもつこと」なのではないでしょうか。
自分でモノサシをもつと、他人に測られるのではなく、自分で測ることができる。
でも、いきなり目盛りのない定規を渡されても、きっと人は困惑するでしょう。
だからみんなでやる。ひとつひとつ、どんな目盛りにするか、考え、話し合い、試し、選ぶ。
モノサシの目盛りをひとつひとつ自分たちで刻んでいくこと。
その活動を私たちは「ものさす」という動詞にして呼んでいくこととしました。
「ものさす」人のいろんなモノサシの集まり。
それがモノサスなのです。