2016年01月20日
田舎のお正月から考える、
つるつるな東京で語ること。
愛媛県四国中央市
土居町のお正月
みなさん、年末年始はどのようにすごされましたか?
私は相方の実家の愛媛県四国中央市土居町に帰省していました。
自分自身の実家は埼玉、祖父母の家も東京、ということで、お盆も正月も関東から出たことがなく、いわゆる“田舎”と呼ばれる地方に馴染みがありません。ですので、こうして地方に帰省する体験は新鮮です。そんな愛媛でのお正月を通し、地方には語ることが豊富にあるなぁとしみじみ感じました。
例えば、その景色です。
愛媛県はみかんの産地で有名ですが、みかんに限らず、柚子、はっさく、あまかん、ボンタン... など、いたるところに橙色のたわわな柑橘類の木がなっています。相方の実家の裏の畑にも、10種類近くの柑橘類の木がなっており、義父から「これは清美、これは金柑、これは◯◯、これは✕✕...」など、解説を受けましたが、種類が多すぎて覚えられませんでした。(後で確認したところ、安西柑、八朔、文旦、清見、甘平、せとか、はるか、きんかん、柚子、すだち、かぼす、レモンなど、とのこと。)
遠くからみると橙色の斑点が山間の畑に広がっています。町の人々は日常の風景として特段何も思わないかもしれませんが、見慣れていない私にはその佇まいがかわいらしく感じました。
また、四国中央市は瀬戸内海と四国山脈に囲まれているので、朝のランニングでも北に向かえば海、南に向かえば山と、一度にどちらも行ける贅沢なコースが楽しめます。愛媛県と香川県をまたいで東西に走る予讃線(よさんせん)に乗れば、景色は海と山が繰り返し、見ていて飽きることはありません。
食文化ひとつとっても、この地域ならでは、という感じのものがいろいろあります。元旦にお雑煮をいただいたのですが、カツオ、昆布だしと薄口しょうゆの汁に、里芋、大根、人参、豆腐、丸餅の具材が入り、最後に三つ葉とゆずの皮が飾られていました。(注:ただし、これが土居町のスタンダード、というわけではなく、独自なアレンジも入っている... とのことです。)
私の実家のお雑煮には豆腐は入っておらず、鶏肉が入って少しこくがあります。青菜も小松菜で、お餅は角餅でした。
ちなみに香川県高松市が実家の友人宅のお雑煮は、あんこ餅が入った白味噌味とのことで摩訶不思議。調べると全国各地でいろんな雑煮があるようで(参照「日本列島雑煮文化圏図」)、どれもユニークなものばかりなので、どこかで雑煮の食べ比べができる雑煮バーのお店ができないかな、などとひっそり待ち望んでいます。
そして、暮らしぶりについても、私の生活にはない、羨ましいものがありました。そのひとつとして、畑仕事です。農家ではないので小さい畑ですが、日々の自分たちの食卓に並べる野菜を育てています。
義父が耕す畑には、大根、白菜、キャベツ、レタス、ブロッコリ、玉ねぎ、じゃがいも、里芋... とさまざまな種類の野菜が冬場の寒空の下でも立派に育っていました。無農薬栽培なので、義父は毎日野菜についた青虫をひとつひとつ手で取り除いているとのこと。そんな手塩にかけた野菜たちは私がいる間も食卓に毎日登場し、「あぁ、これがあの畑で育ってきた野菜なのか、美味しいし、いとおしいなぁ。」と、感慨深くいただきました。
このように、土居町には東京にはないものがたくさんあり、日々の暮らしの豊かさがあります。これがもし、東京の正月だとしたら、私はどんな豊かさを伝えるでしょう?
東京で暮らす私は
何を語る?
こちらの「ものさす」サイトでは、神山やタイ、大阪など、本社のある東京以外での活動報告を、「仕事と暮らし」というコーナーで展開しています。
どの地域も何気ない日々の暮らしに特色があり、個人的にも興味深いものになっています。
そんな記事を読みながら、ふと思うのです。私の住む東京をいち地域としてとらえるとしたら、何を伝えられるのかな?と。スカイツリー?アリーナ?はたまた渋谷のスクランブル交差点?もしもそれらの単語のつぶやこうものなら、ネットの巨大なブルドーザーにあっという間にならされ、つるつるな道路の表面の一部のように、つまり不特定多数に埋もれた言葉になってしまう気がするのです。
土居町では畑に生えた大根一本でさえ、さぁ見てくれとばかりに存在として輝いているのに、渋谷のスクランブル交差点の道路のシマシマに、その輝きはあるでしょうか。東京では、何かを語ることの難しさがあるなぁと、つねづね感じています。その難しさから解き放たれたくて、みんな週末には山にいったり、海に行ったり、時々遠くに旅行したくなるのかなぁ、と。
ただ、ここが、私が住む東京が、硬くて均質的なアスファルトが、自分にとっての一種の「自然」であることもまた事実です。団地に住んでいた幼い頃の、海も山もない、コンクリートに囲まれたそれが自然の風景でした。いまだに団地の写真などをみると、何か心を動かされるものがあります。
私が好きな作家・東浩紀の著作に「いちどつるつるを通り抜けた多様性」※1という言葉があります。東氏は、シンガポールに旅行中、ショッピングモールでみた、“偽物”の屋台村を、文化の差異が均一になったような場所だと言います。同時に、そこでの人々の喧騒はまぎれもない事実だとも。つまり、“偽物”の屋台村という虚構の上で、人々が活動しているその現状には、まぎれもないリアリティがある、と言うのです。
もし東京に住む私が、「仕事と暮らし・東京編」の記事を書くとしたら、それらの“新しいリアリティ”の豊かさについて、言葉を探さないといけません。実はそこに、可能性が眠っているのでは、と…。つるつるな東京の多様性について、いつか何か書けるといいなぁと思っています。
※1 東浩紀 著「思想地図 β』創刊に寄せて」(『思想地図 β Vol.1』コンテクチュアズ(現ゲンロン)2011年初刊より)