2017年01月24日
神山ものさす塾での6ヶ月を振り返って
こんにちは、神山ものさす塾第2期塾長の栗原です。
年々、一年が過ぎるのを早く感じるようになり、2016年もあっという間に過ぎ去りました。
自分がいる徳島県神山町の山々には白く霜が降り、凛とした空気が辺りを包んでいる今日この頃。2017年、気持ちを新たにスタートしました。
とその前に、ご報告が遅くなりました。昨年7月から12月の6ヶ月間、神山町にて実施しておりました「神山ものさす塾(雇用型職業訓練)第2期 」は、12月19日に塾生10名が無事に卒塾を迎えることができました。
それと同時に塾長としての任も終え、さみしい気持ちもありつつも、一人の脱落者も出さず終えられた安堵感でホッと肩の荷が降り、年末をゆっくりと過ごすことができました。
知らない土地である神山町で生活をしながら、いままでに経験をしたことがない“人にものを教える”ということに、戸惑い、行き詰まり、試行錯誤を繰り返し、常にバタバタと慌ただしい毎日を過ごす日々。
今回は、そんな神山ものさす塾の6ヶ月間を塾長目線で振り返ってみたいと思います。
塾生に何を伝えていく塾なのか
塾の開塾準備は2月頃から始まり、県へ提出する書類の準備、塾の方向性を決めるコンセプト作り、教室の手配、準備、カリキュラムの構築、講師のアサイン、入塾面接と決められた期間内にやることが盛り沢山。東京と徳島の往復を繰り返していました。
特に開塾準備で難航したのがコンセプト作り。何のためにやるのか、その為には何を教えるべきなのか、それは誰が教えるのが適任なのか、塾生が卒塾時にどんな状態で巣立って欲しいかなど、長時間に及ぶ打合せを何度も何度も重ねました。
正直この時点で、見えない部分が多い中、様々なことを判断して決めなくてはならないことに頭を抱え、ストレスで嫌になったことも…。
しかし検討を重ねた結果、モノサスが「今」欲しい人材ではなく、「将来」欲しい人材を育成すべく、「つくる力」と「伝える力」を身につけてもらい、「中の人」になれる人材に育てようということに決まりました。
(「中の人」についての詳細はこちら)
方向性は定まったものの、そのためのプロセスとして、どのようにカリキュラムを組むか、ということでも頭を抱えていました。
しかし、どんなに入念な準備を行っても思い通りに行くことは少なく、何か予想外のことが発生するものです。もちろん準備をおろそかにして良いものではなく、入念な準備をすることで初めて、その場の状況に合わせてうまく対応できると考えています。
カリキュラムの構築においても同じで、事前に入念には検討を行いますが、カリキュラムの進行状況、習熟状況をみながら臨機応変に軌道修正を行いながら塾を作り上げていくことにしました。
ぶれないように心がけたことは、「参加してくれている塾生にとって一番良い方向へ進むこと」を常に考えることでした。
塾長=塾生と◎◎◎をつなぐパイプ役
そもそも「塾長」って何?
塾の準備を始めてから「もやもやっ」と常にあるのは「塾長」という言葉でした。
「塾長ってなんだ?」「塾長の役割ってなんだ?」
小学校の校長先生とは違い、職員が何十名もいる中での役割とも違うなと。
塾の塾長?いまいち何をするのかが見えにくい肩書きです。
それは、「塾長」という言葉に対して見合っていない自分がそこにいたからなのかもしれません。
しかし神山ものさす塾の責任者としては、
「参加してくれている塾生の10名が誰一人欠けることなく、Webのスキルを身に付けてもらい、卒塾させること。(且つ楽しんでもらえれば尚可。)」は最低限達成させなければいけないとは思ってはいました。それは塾長の役割でもあるのですが、どこか腑に落ちていません。
そんなもやもやした状態で、神山ものさす塾が全国から10名の塾生を迎え入れ、スタート。
開塾式の「塾長から一言」の際は、なにかとてつもなく良いことを言わなければいけないのか?何を言えば良いのだろうかと、身構えてしまいました。
塾長という言葉が付くだけでぐーんとハードルがあがるような。
さらに、多くの塾生がそれまでの仕事を辞め、大きな決断をして神山へ来てくれるということもあり、その期待、決意に応えるべく、「参加してよかった」「今後の自分のためになった」と言ってもらえるようにしたい、しなければならない、といったプレッシャーもありました。
「塾長」というイメージだけがどんどん大きくなり、自分の中で一人歩きしているような感覚。
そんな中、神山塾KATALOGコースとの合同カリキュラムとしてあったアドプト活動で、地域のトンネルや道路などの清掃活動を行う機会がありました。
もともと体を動かすのが好きな自分は、草刈り機などを率先して使わせてもらい、学び、楽しみながら清掃活動にいそしむなど、気づけば一参加者のスタンスで参加していました。
ふとあるタイミングで冷静になり、考えました。
カリキュラムの一環で行っている授業なのに、塾生のことを気にせずに率先して楽しんでしまっていたと。
草刈り機など使ったことのない塾生はたくさんいて、そのような色々な体験をしてもらうのが目的なのに、自分のやりたいことをやってしまっていたと。
今の自分の立場は、自らやりたいと言えない人に、そっと手を差し出し体験を積んでもらえるように動かなければいけないのでは?塾生全員に経験を積ませることなのでは?と。
そんな、お恥ずかしい気付きがきっかけで、神山ものさす塾での塾長の役割が自分の中にストンと落ちた気がしました。
その「役割」とは、神山ものさす塾に関係するすべての事柄と塾生とを結ぶ「パイプ役」でした。
表現が難しいのですが、1つの点と点を結ぶことは、自分自身の役割として講師の方との調整などはやっていたのですが、それは講座を行う上での1つのタスクとして実行していただけでした。
改めて自分がやってきたこと、行動をしてきたことを俯瞰して見てみると、大小様々な点と塾生をパイプで結ぶ調整を数多くやっていました。むしろ、それのみをやってきたと言えるかもしれません。
つまり「塾長」とは、「ディレクター」だと自分なりに解釈して納得したのです。そしてそれが、自分としての一番大事な役割だと改めて気付きました。
それ以降、神山ものさす塾の主役は塾生。塾生にとって最大限よい場所となり、よい経験ができるように「塾長」としての役割に徹することに。
それから、重くのしかかっていた肩の荷がおり、自分の中の「塾長」のイメージを演じることなく、フラットな自分で塾生一人一人と接することができました。(鋼のパンツを履いていると塾生には言われていましたが。)
「塾長」と呼ばれても違和感なく、むしろ愛称のようなものだと思うようにもなりました。
神山ものさす塾 第2期塾長として関わった6ヶ月。
今まで経験できないことを多く体験できた日々となりました。
色々と考えさせられ、立ち止まり、また進み、自分なりに試行錯誤を繰り返しながらやってこれたかなと思います。
塾生をはじめ、本当に多くの方と出会えた「神山ものさす塾」でした。
ここでの貴重な経験は、一人の人間として大きく成長ができた6ヶ月だったのではと感じます。
神山ものさす塾の塾長としてちゃんとできていたんだろうか、もっと塾生からはこうして欲しかったなどあるのかもしれません。
しかし、自分なりに6ヶ月間「神山ものさす塾」に向き合い、最大限フル回転でやりきることができたのではと思っています。
神山町という町で神山ものさす塾に関われたことに感謝して、前編は終えたいと思います。
ありがとうございます。
(後編に続く:来月2月投稿予定)