2017年05月25日
対象を愛することから生まれる
「言葉のチカラ仕事」
interview コピーライター・栃澤桂司さん - 前編 -
モノサスでは、一昨年から雇用型職業訓練「神山ものさす塾」を開いています。その第二期では、コーディングとライティング(インタビュー含む)の技術を学び、「中の人」となるべく人材を育成することを目指してきました。
そのライティング講座を担当してくれたのが、今回、めぐるモノサシに登場していただく栃澤桂司(とちざわ けいじ)さんです。
栃澤さんは 80 年代からコピーライター、クリエイティブディレクターとして活躍されてきた大ベテラン。ものさす塾では
、毎週 2日間、全 8 日 50 時間の講座をご担当いただき、授業の前後の時間に、塾生たちと大いに飲み、語り、たくさんの熱い言葉を授けてくださいました。
神山の日々から 5 ヶ月、この日は卒塾後に「言葉を扱う業務」に携わることとなった大村と羽賀のふたりが、卒塾生の代表として湯河原町にある栃澤さんの自宅兼事務所を訪問。“言葉の師匠”である栃澤さんのこれまでの歩みやモノサスとのつながり、今後の夢をお聞きしつつ、新たなキャリアで直面している悩みをぶつけてきました。
(インタビュー構成:佐口賢作)
話し手
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栃澤桂司(とちざわ けいじ)さん プロフィール:
1957年神奈川県出身。コピーライター/専門学校講師。日本大学生産工学部卒。(株)日本デザインセンターを経てフリーに。ワークライフバランスを考えて横浜から湯河原町へ移住しSOHOで活動中。座右の銘は「学殖を増すものは遊びだけである」。
聞き手
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神山ものさす塾 二期生 羽賀敬祐(はが けいすけ):
生まれ故郷の広島を離れ、神山ものさす塾二期生として徳島へ。山奥での半年に及ぶ修行を経て、代々木にたどり着きました。マーケティング部BtoBチームのプランナー見習いとして、日々邁進中。
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神山ものさす塾 二期生 大村陽子(おおむら ようこ):
広島県出身。神山ものさす塾第二期生を経て、プロデュース部ものさすサイト編集部へ。前職でも編集に関する仕事をしていましたが、ものさすサイト編集部では、今までと違う編集のあり方を学ぶ日々。
工学部出身のプログラマーが
“コピーライター栃澤桂司”となるまで
- 栃澤さん
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塾生だったふたりには改めてになるけど、まずは僕の経歴から話したらいいのかな?
- 大村
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お願いします。
- 栃澤さん
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文系出身者が多いコピーライターとしてはめずらしく大学は工学部で、卒業後はプログラマーとして1年間某メーカーに勤めていました。仕事自体はおもしろかったんだけど、“なんか違うな?”と思っていて。
23歳のときだね。九段下の地下鉄の駅の階段を上がっていって、真夏だよ。空は真っ青で。“あれ? 俺は、何をやっているんだろ?”と足が止まった。それから数カ月後だね。会社を辞めたの。
それで、学生時代から興味があった広告の世界に行こうと思って、コピーライターの養成講座に通い始めたんです。
- 大村
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広告に興味を持つきっかけは、あるポスターだったんですよね?
- 栃澤さん
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そうそう。伊勢丹の。僕は大学生の頃、伊勢丹でアルバイトしていてね。
土屋耕一さんというコピーライターが書いた「あ、風がかわったみたい」というコピーと女性のビジュアルを組み合わせたポスターを見たときに、1枚の紙の向こうにものすごい広がりを感じたんですよ。
これだけの言葉でいろんなことを想起させられるなんて、おもしろい、と。それで憧れたのが、始まり。でも、大学は工学部ですから。まったく関係ないわけ。表現というのは素敵だなと思いながらも、粛々と学業をしていたわけです。
そして、就職。「いい学校、手に職を付けるなら理系、いい会社に入りなさい」という親が敷いたレールに乗っていたんだよね。
- 羽賀
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会社を辞めた後はスムーズだったんですか?
- 栃澤さん
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コピーライター養成講座をわりと成績良く出られたので、“できんじゃないの?”と軽く考えて、小さいプロダクションに入ってアシスタントを始めた。最初は完全に使いっ走りで、仕事しながらいろいろ覚えて、2年目の26歳のときかな。コピーライターの名刺を作ってもらえたのは。
そこからはコピーライター一筋。一度、転職して日本デザインセンターに入り、31歳でフリーになって、12年前に栃澤桂司事務所を法人化して有限会社コネクティングロッドの代表になって今に到るという。代表もなにも、社員は僕だけだけど(笑)。
- 羽賀
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コピーライター養成講座で最初から“書けた”のは、どうしてなんですか?
- 栃澤さん
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理系の学部は実験レポートを書く機会がすごく多いんですよ。そこで、文章の定型的な書き方を否応なしに覚えさせられ、教授からはどんどん赤字が入る。レポートの再提出を繰り返しているうち、論理的な文章を書けるようになったんじゃないかなと。
だから、それが思わぬところで役立ったと言った方がいいかもしれない。
ていよく組み合わせた言葉は力が出ない
名コピーは考えて、考えた末に下りてくる
- 大村
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私たちはモノサスに入ったばかりですが、栃澤さんと弊社の出会いはどういう形だったんですか?
- 栃澤さん
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ある地方銀行の案件があってね。僕はクリエイティブディレクターとして、まだモノサスを作る前の林さんがマーケティングチームとして入っていたんですよ。
そのときに初めて一緒に仕事をしていろいろ話すうち、林さんがヤマハ発動機販売の仕事をずっとやってきたとわかってね。僕はヤマハ発動機の広告をずっとやってきたから、えーっ!という感じで距離が近づいたのかな。
その後、林さんからヤマハ発動機販売の営業マンに対して、「ヤマハブランドについて話してくれませんか?」と頼まれて、今まで作った広告をベースに「ヤマハのDNAとは?」という講演をしたこともあった。
今度は僕の方からお願いして、ヤマハ発動機のサイトを作ってもらったりと。だから、お付き合いは相当古いんですよ。
- 大村
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ヤマハ発動機と言えば、今もヤマハの開発思想を示すコピーとして使われている「人機官能」という言葉。ものさす塾の授業のなかで、このコピーを作ったのが、栃澤さんだと知り、本当に驚きました。
名コピーはどういうときに生まれるんですか?
- 栃澤さん
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コピーってね、考えて、考えて、頭が痛くなるほど考えて、ダメだーと頭を抱えた頃に下りてくるものなんだよね。
それは他のことをしていても脳が考え続けているから。だから、ぽんっと出てくる。気持ちいいものが書ける。もちろん、そうじゃないときも多いのだけれど。
- 大村
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下りてくるまでには、現場に行き、体を動かすことが重要ですか? それとも考えて、考え抜く時間が重要?
- 栃澤さん
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どちらも。「人機官能」って言葉が下りてきたときは、それまでにヤマハ発動機の新商品の広告をいくつも作り、取材で技術者やデザイナーとかなり話していたんだよね。そういうものが蓄積されていたのが大きかったと思う。
決して自分ひとりで考え出したわけじゃなくて、案を指示してくれた広告代理店の営業さんとか、いろんなことが1つになって世に出られたのだと思う。
- 羽賀
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理論立てて課題を抽出した結果、出てくるものですか? それとも感覚的なものですか?
- 栃澤さん
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準備段階はけっこう論理的。ここが会社の特徴である、ここが得意分野であると。要素を整理して、その会社のことを理解していく段階があり、その時点で発生するコピーもあるんだけど、一旦、置いておくんですよ。
そうすると、まったく違う角度からぽっと下りてくる。左脳がフル回転しなければ、右脳も働かない。言葉って上滑りするから、どこかで聞いたことある言葉を組み合わせて、ていよく使った場合、コピーに力が出ない。
さっき、大村さんが実感したと言っていたけど、自分なりに腑に落ちて、腹の底からパッと出た言葉には力が宿る。ただし、それは頭が痛くなるほど考えないといけない。
ブランドの本質とお客さんを見つめる
両者の接点が見つかれば答えが出る
- 羽賀
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ひと言だけだと、ぽんと思いつきで出そうなイメージですけど、そのひと言にたどり着くにはそれだけのステップがあって、自分から知ろうとしないと出てこないんですね。
- 栃澤さん
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それは言葉にかぎらず、アイデアもそうかもしれないよね。僕の場合、見たり読んだりした知識を自分事化するのが苦手で。体験してしまう身体性を大事にしている。
僕はたまたま 16 歳のときからオートバイに乗っていたこともあって、ヤマハ発動機の仕事にめぐり逢い、長く携わることができている。これは本当に幸せなことです。
なんでも器用にはこなせないけど、手も足も 2 本だしさ。1 日は誰もが 24 時間だから、自分が体験したものに携わった方が強いよね。
他の仕事に関して、アウトドア系が多いのも同じ理由から。今日、皆さんに来ていただいたこの家も、広告を作るうち、ブランドが掲げている「自然とともに暮らす」というテーマに惚れ込んで買ってしまったくらいで。
- 大村
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仕事を通して知った商品を愛して、家まで買ってしまうというのはすごいエピソードだと思いました。
- 栃澤さん
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自分で商品のコピーを書いて、「いいな、これ」と思ったら欲しくなっちゃったという(笑)。
- 大村
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本当に商品に入れ込むというか、自分のものにしたいくらい愛して仕事をしていくんですね。
- 栃澤さん
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すべての仕事でそうできているとは言えないけど、なるべくそうしています。それはコピーライターの養成講座に行っているとき、糸井重里さんに言われた。「自分の商品を愛しなさい」って。そのアドバイスは今も残っているから、苦手なものでも愛するようにしている。仕事だからね。選べないから。
- 羽賀
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苦手なものでも、ある側面を見ると愛せる面がある。そういう部分をみつけていきなさいってことですか?
- 栃澤さん
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そう。「愛せないな、これ」って思っても切り口を変え、「ここは優れているな、この機能は多くの人から必要とされているな」と視点を定めると、愛せるところまでいけなくてもある程度の感情移入はできるものだから。
- 大村
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伝えたいと思える部分を見つけていくってすごいですね。
- 栃澤さん
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伝えるべきものをクライアントさんがつかんでいないことも少なくないから。コピーライターは、その会社が持っているブランドの本質を見て、商品を最後に手に取るお客さんを見る。両者の接点をみつけること。そうするとコンセプトから外れた表現にはならないはず。
それをせずに、あちらを立てて、こちらを立てて修正していたら、いつまでも仕事が終わらなくなっていく。大事なのは、クライアントと消費者、生活者の間にあるものはなんであるかを考えることだと思うよ。
- 大村
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栃澤さんのなかで一番思い出深い仕事と聞かれたとき、思い浮かぶのは?
- 栃澤さん
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塾でも見せたけど、ロシアでのヤマハ発動機のブランディングの仕事だね。これはヘビーだったけど、全方位でいろいろできたからおもしろかった。
当時のロシアはまだ事情も何もわからない国で。僕もピロシキと赤の広場の玉ねぎ坊主の建物くらいのイメージしかなくて。商材はオートバイ、マリン、ATVという四輪バギー、スノーモービル。プレゼンを通過して仕事が決まったと思ったら、「9日後にウラル山脈の向こう側で試乗会があるから、そこでスノーモビルのPV映像を撮れませんか?」と。
- 羽賀
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9日後?
- 栃澤さん
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というのも撮影対象となるスノーモビルのラインナップが集まるタイミングがその試乗会の日だけだったんですよ。ロシアでは新たに場所を確保するのも大変で、そこしか撮影のチャンスはないと言われて、8日間で準備をして、グラフィックとプロモーションビデオを撮影。その素材を使って、サイトを作り、イベントを仕掛け、展示会をやり、屋外看板や雑誌広告も作った。
本当にスリリングでおもしろかったな。あんな経験は、今後も二度とないだろうな。
(後編へ続く)