2017年08月17日
「自分の言葉をつかまえる」べてるまつり2017に行ってきました。
〜浦河べてるまつり2017 レポート前編〜
ものさす編集部の中庭です。
今年7月末に開催された “べてるまつり” に行ってきましたので、そのレポートや感じたことについて、前後編に分けて投稿したいと思います。
べてるまつりのレポートにはいる前に、そもそも「べてるまつりって何?」というところから、参加した経緯、開催地の北海道浦河町のことをまずはお伝えします。
また、おまつり前日には “当事者研究集会”があり、こちらも密度が濃い1日となりましたので、明日の後編でお伝えしたいと思います。
前編(べてるまつり)INDEX
べてるまつり & べてるの家とは?
“べてるまつり” とは、北海道浦河町にある精神障害をかかえた方たちのコミュニティ “べてるの家” が毎年開催しているお祭りのことです(今年で25回目)。
べてるの家は今から約40年前(1978年)、統合失調症の当事者たちを中心とした回復者クラブ「どんぐりの会」がはじまり。当時、浦河赤十字病院病院に精神科専属のソーシャルワーカーとして勤務していた向谷地生良(むかいやち いくよし)さんが、どんぐりの会メンバーと一緒に浦河教会旧会堂で暮らしながら活動をはじめました。
向谷地さんはべてるメンバーと過ごす日々を、「問題だらけ」だけど「順調」だと言います。
べてるは、いつも問題だらけだ。今日も、明日も、あさっても、もしかしたら、ずっと問題だらけかもしれない。組織の運営や商売につきものの、人間関係のあつれきも日常的に起きてくる。一日生きることだけでも、排泄物のように問題や苦労が発生する。
(浦河べてるの家『べてるの家の「非」援助論』2002年 医学書院)
「自分の悩みや苦労を担う主人公になる」「それで順調!」だと、肯定しているのです。
最初に私がべてるの家を知ったのは、西村佳哲さんの本『みんな、どんなふうに働いて生きてゆくの?』に載っていた、向谷地さんへのインタビューから。そこには向谷地さんのこんな言葉が書かれていました。
学生の頃から私は、とにかく切実に苦労したいと思っていたんです。なにかこう根本的な鍛錬が自分には足りないんじゃないかという危機感があって。たいていの人たちの人生は、楽しいとか、嬉しいとか、喜ばしいといったところを軸に回っていると思うんですけど、私は、生きることの苦労の芯に一度降りてみたかったんです。
(西村佳哲 著『みんな、どんなふうに働いて生きてゆくの?』2010年 弘文堂)
「苦労の芯に降りてみたかった」という言葉に重い衝撃を受けました。20代そこそこの若者が、経済的に貧しく、過疎化がすすむ北海道浦河町という果ての地へやってきて、地域の「絶望のシンボル」だった精神科病練でソーシャルワーカーとして働く「苦労」を選んだという事実。そればかりか精神疾患を抱えた方達とともに住み、彼らとともに起業するという発想のゆたかさ…。おどろくことばかりですが、そんな苦労に降りる向谷地さんの生き方自体に、自分の根底が揺さぶられるものがありました。
いったい向谷地さんとはどんな人なのだろう。そしてべてるの家は、実際どんなようすなのか確かめに行きたい…と思った時、べてるまつりの開催が直近で予定されていることを知りました。それに気づいたのは7月の第1週の終わり。開催3週間前です。
仕事の整理もお金の工面もある。交通手段も宿も、まつりの参加チケットすら直前すぎてとれるか分からない状態でしたが、来年まで待つ気になれず、その時はすでに今行くしかないという信念に火がついていました。
そこからのあらゆる手配はてんやわんやです。(特に宿はべてるまつりの開催日が告知された直後に予約が埋まってしまうようで、あやうく野宿になるところでした。)
なにはともあれ無事、べてるまつり in 浦河に向けて出発しました。
北海道浦河町というまち
べてるの家について考えるとき、拠点となる北海道浦河という町のことを外せません。ここがどんな町なのか、少し説明しておきます。
北海道南部に位置し、人口約13,000人のまち。 夏は涼しく冬は温暖、雪が少ない海洋性気候で、 「北海道の湘南」とも呼ばれる穏やかな気候が特長です。*
*『うらかわ旅』「うらかわについて」http://www.urakawa-tabi.com/about/ 参照
新千歳空港から浦河までは車で2時間半〜3時間かかります(東京の自宅から浦河まで、ドア toドアで10時間ほど)。
空港から乗った浦河までのチャーターバスの車窓には、左手に日高山脈や田畑、牧場の地平線、右手に太平洋の水平線が延々と続くようすが見えました。
浦河は馬と沿岸漁業の町。べてるの家では、ここでとれる日高昆布を乾燥したものを、自分たちで直接仕入れ、売っています。
バスを降り、はじめて訪れた浦河の町の印象は、くもりと雨を繰り返す天気だったこともあってか、霧がたちこめた、うら寂びしい漁業町といったものでした(「浦河」という地名はアイヌ語で「霧深き川」という意味だそう)。
べてるの家は、この浦河とともに歩んできた歴史があります。
みんながみんな好意的にみているわけではなく、偏見もありました*。話を聞くと、住民との衝突やべてるメンバーが起こす騒動も多く、地域に迷惑をかけることもたくさんあったよう。そんな彼らがはじめた昆布事業が徐々に大きくなっていくと、町の経済にとっても彼らの存在は無視できないものになっていきました。
当事者の「病気も含めた個性」と、地域の「過疎も含めた個性」とが渾然一体となり、じつに楽しみな地域づくりがはじまりつつある。
(浦河べてるの家『べてるの家の「非」援助論』2002年 医学書院)
今では町長さんが「馬のまち、海のまち、べてるのあるまち」と話すくらい、地域にとってべてるの家はなくてはならない存在となっているようです。精神疾患のある方達がこのように地域とともにあるというのは、全国的にもとてもめずらしい光景であることは言うまでもありません。
長年浦河で住まわれている地元の方にも話を聞いてみたところ、「受け入れるも何も、気づいたらずっといたからね。ぽっとやってきたわけじゃないから」という、自然体な答えが返ってきました。
当事者も地域住民も、一緒にまちをつくってきた歴史の積み重ねがあって、今の浦河のかたちがあるんだと感じました。
いよいよべてるまつり開会式
7/29(土)、べてるまつりがはじまりました。この日の前日におこなわれた当事者研究集会も参加したのですが、さらに人は増え、会場からはまた違った熱気を感じます。
開会式では、べてるのドンで販売部長の早坂潔さんによるあいさつからはじまり、町長、市議会議員のあいさつと続いて、最後にべてるメンバーで開会の歌を歌いました。
ここから、べてるまつりスタートです。
午前のシンポジウム
「ムーミンに学ぶ 生き方暮らし方」
午前中は『ムーミンに学ぶ 生き方暮らし方』と題して、ムーミンとべてるの家の共通点について、ムーミン研究家の森下圭子さんが、フィンランドの多様な風景写真のスライドとともに語ってくれました。
森下さんが伝えたムーミン谷の特徴をいくつかあげます。
- 多様な生き物が当たり前のように一緒に暮らしている
- さまざまな自然災害がやってくるにもかかわらず、みんな淡々と暮らしている
- 自分らしくあるということはとても重要視されている
- ムーミンは基本は冒険譚なのだけど、英雄が不在で勝ち取るものがないにもかかわらず、全員がなんとなく幸せになっている
- 曖昧なままでいい
- 仲間を大切にしている(フィンランド自体、国のスローガンが仲間を大切にすることだそう)
これらは、フィンランドで生まれた「オープンダイアローグ」(対話療法のひとつ。明日の後編で詳しく述べます)や、べてるの家と共通しているのだと、話してくれました。
森下さんのお話のあとは、「ムーミン」のキャラクターに変装したべてるのメンバーが登場。会場が沸きました。みんなで感想を述べたり、森下さんに質問したり、わいわいしながら午前の部が終了です。
ランチはべてまるしぇ & カフェ・ぶらぶらへ
お楽しみのランチタイムは、べてまるしぇや、カフェぶらぶら(べてるメンバーで運営しているカフェ)にむかいました。
べてまるしぇでは地元のお店が出店し、たこ焼き、ひやむぎ、パンなどの食べ物の他、コマや木工品、アクセサリーなどの雑貨類も販売しています。また、当事者研究を行なっているグループがブースを出し、冊子などを販売していました。
一方、会場から歩いて4分ほどの場所にある「カフェぶらぶら」でもランチをいただけます。こちらはべてるメンバーやスタッフで運営されているお店。もとは本屋さんだったところを改装してつくられました。上の階にはべてるメンバーが暮らしているとのこと。
この日のランチメニューは牛丼。牛丼の上には「幻聴さん(べてるのメインキャラのようなもの)」をかたどった人参と、ズッキーニがのっています。これはべてるの農園でとれたものだそうです。
べてる 1年の報告
お昼休憩がおわると、べてるの1年間の活動報告の時間です。この発表を聞いて、べてるの家のまわりには、さまざまなサポートグループや、当事者本人たちでたちあげた活動があることを知りました。
この日発表したチームだけでもこれだけあります。
- ウレシパの会
- 浦河ひがしまち診療所
- うらかわエマオ診療所
- べてるぴあサポート
- グループホーム
- 送迎チーム
- ミナチーム
- なんちゃってヘルパー
- 新撰組
- 昆布チーム
- グッズチーム
- 発送チーム
- べてるの人々
- カフェチーム
みなさん歌や踊りをまじえながら、楽しく活動の様子を伝えてくれました。その中から4つのグループを紹介します。
浦河ひがしまち診療所
浦河ひがしまち診療所は、べてるのメンバーがお世話になった浦河赤十字病院の精神科がなくなってしまったことを機に、その病院の精神科医だった川村先生を中心に立ち上げた診療所です。べてるメンバーの多くはこちらの診療所に通っているとのこと。
診療所では障害のある方たちの芸術活動をサポートしているようで、今回はなかでも力を入れている音楽(フリースタイルなパーカッション演奏)のお披露目でした。
新撰組
新撰組では有志でゴミ回収や畑仕事など、(さまざまな!)力作業をおこなっています。「他のチームは替え歌ですが、うちははずがしかり屋が多いので」ということで、スライドで発表してくれました。
ゴミ回収がはじまった経緯は、浦河町のゴミの分別が細かいため、調子が悪いと難しくなり、分別できないままゴミを出してしまうことがあるそうで、それが続くと町の人に「またべてるが分別していない」と言われてしまうので、それなら自分たちで回収してしまおうというのがはじまりでした。今では保健所や高齢者、企業からも依頼があり、町へも貢献しているそうです。
それ以外にも引っ越しの手伝いやゴミ屋敷の掃除、亡くなった方の家の整理、倉庫の解体、草刈りなど、「えー!そこまで?!」という多岐にわたる力仕事の内容におどろきました。
いまでは畑で野菜もつくっていて、さきほど紹介したカフェぶらぶらのランチに入っていた人参などは、彼らの農園でとれたものだそう。なんだか応援したくなるチームでした。
なんちゃってヘルパー
なんちゃってヘルパーとは、上で説明した「新撰組」が自主的にはじめたヘルパー的事業のこと。これまでべてるでも浦河町でも居宅介護の事業をおこなってなかったので立ち上げたそうです。部屋の掃除や、べてるのグッズづくりなどをされています。
発表はやはり替え歌で、曲は『なんてったってアイドル』の変え歌『なんてったってヘルパー』。
最初にヘルパーさんから「みなさん幻聴さん持っていますか?」という投げかけがあり、ああ、会場の人がそれぞれもつ幻聴のことを言っているのかな?と思いきや、まつりのしおりに同梱されていた、フェルトでつくられた幻聴さんのことでした。(これをつくるのに全精力を使い果たして頭が真っ白な状態になったそう。)
これが歌の最中に(とく HEY! の掛け声のとき)かざすためのものだとその時知りました。
ちなみに、秋頃より本当のヘルパーステーションをつくられるので、介護福祉士さん、ヘルパー有資格者さん大募集中のとのこと。気になる方は連絡されてみてはいかがでしょうか(こちらにブログあります)。
昆布チーム
向谷地さんが「ビジネスをはじめよう」とべてるメンバーに声をかけ、最初にはじめたのが昆布事業です。すべては昆布からはじまったと言っても過言ではありません。
そんな大切な事業をつかさどる昆布チームの発表は『こんにちは赤ちゃん』の替え歌で、『こんにちは〇〇さん(タイトルを確認し逃しました)』。
昆布チームは昆布の研究として、2ヶ月間、昆布を食べ続ける実験をしてみたとのこと。24キロも痩せた人もいれば、逆に2キロ太りました、という人や、お肌がつるつるになった人、血圧が下がった人、夢にわかめが出てきたので食べる量を減らした人など、さまざまな研究結果が出たようです。
わたしもべてる昆布はたくさん買ってきたので、昆布実験してみたいと思います。
怖がらないで、おもしろがろう
幻覚&妄想大会
いよいよべてるまつりの目玉、幻覚&妄想大会がはじりました。幻覚&妄想大会とは、その年、もっとも奇想天外な幻覚妄想体験をしたべてるメンバーが、その体験をみんなに発表する場です。
会の準備中、壇上できよしさん(早坂潔さん、べてるの販売部長)が「間がありますから」と、とつぜん寅さんをアカペラで歌いはじめました。自由です。
会場準備が終わると、向谷地さんがこれまでのべてるの家をふりかえり、幻覚&妄想大会がはじまったきっかけを話してくれました。
幻覚&妄想大会は、1990 年、グループホームのミーティングでメンバーの幻覚を聞いて、みんなで腹かかえて笑っていたところ、「これは自分たちだけで聞いていたのではもったいないから、べてる総会*でもやろう」ということではじまったそうです。
『べてるの家の「非」援助論』によると、精神医療の現場では、幻覚や妄想はつらいもので、薬で封じ込めようとしてきたそうです。しかし、単純に薬で抑えきれるものでもなく、つきあっていかなければならない場合も少なくないそう。
本の中で向谷地さんはこう書いています。
孤独で、将来に希望のないなかで聞く幻聴は、おしなべて「死ね」とか「馬鹿」とか、とにかく嫌なことを言ってくる。ところが、不思議なことに仲間が増え、人とのコミュニケーションが豊かになると、幻聴にも愛嬌が出てきたりする。
(浦河べてるの家『べてるの家の「非」援助論』2002年 医学書院)
べてるの家では、幻聴を「幻聴さん」と呼びます。忌まわしい幻聴を人に話して共有するなかで、幻聴のあり方が変わったり、自分を守ってくれるような幻聴が現れたりと、幻聴とのつきあいが人つきあいに似てくるようです。このことは「当事者研究」や「オープンダイアローグ」につながっていく話ですが、詳しいことは後編でお伝えします。
プレイバックシアター
授賞式の前に、ゲストのみなさん(フィンランドや韓国からお越しの方たち)に、べてるまつりに来て印象に残ったシーンのプレイバックシアターがありました。プレイバックシアターとは、聞いた話を即興劇で再現するというユニークなもの。抽象的なものから具体的なものまで、さまざまな事柄を表現されていました。
受賞者発表
その後、会場から幻覚&妄想大会にエントリーした方たちの発表や、新人賞、ピアサポート賞、ぱぴぷぺぽだったで賞、なつひさお*賞、の発表がありました。
どの賞も、プレゼンテーターの松村さん(下写真中央の白い服を来た女性)から発表されます。松村さんはとても情感こめて受賞理由の原稿を読み上げてくれるのみならず、逐一オリジナルな感想を加えてくれるので、その度に会場が沸いていました。
幻覚&妄想大会、グランプリの発表
各賞の発表のあとは、いよいよグランプリの発表です。
受賞したのは、「飲め飲め幻聴さん」によって、家の鍵を飲み込んでしまった石村謙次さん。
飲め飲め幻聴さんによって部屋の鍵を飲み込んでしまった石村さんは部屋に入れなくなり、元祖べてるに助けを求めるも、メンバーに怒られた結果、その日は野宿されたそう。やむなく翌日、仲間に「鍵が無くて部屋に入れない」とSOSを出し、スタッフと部屋に鍵を探しにいくと「実は飲みました」と発言し、レントゲンを取りにいくと、鍵(キーホルダーつき)がくっきり映っていたそうです。
石村さんは副賞として、絶対飲み込めない大きな鍵とキーホルダーをもらいました。
その話を聞いたプレイバックシアターのメンバーは、鍵を飲み込んだシーンを即興で再現。青い布でお腹のなかを映すレントゲンを表現したシーンでは、迎能部長の木林さんが、副賞の大きな鍵をレントゲンの布にかざすという機転の効いたアドリブで、さらに会場の笑いは大きくなりました。
この受賞結果を受けた、主治医の川村先生は、
「そういう(鍵を飲んだ)行動をとる患者さんの報告を受けたら、普通、主治医としては状態のあきらかな悪化とみるわけですけども、わたしは “もしかしたら今年度のグランプリは…” と。精神科医をやりながらグランプリのことも考えないといけない、そういう幅の広い仕事しています」
という最高のコメントをされ、会場は爆笑の渦となりました。
弱さの情報公開をするということ
はじめてのべてるまつり参加でしたが、おもしろいだけではなく、なんというかあたたかい会でした。
「べてるの家はムーミンに似ている」という、森下さんのお話からはじまりましたが、べてるのみんなはまさに病気という苦労を個性にし、多様な人たち同士があかるくすこやかに過ごしているように感じました。
自分がかかえる病気を包み隠さずオープンに話し、それを他の人が聞き取ると、そこからエネルギーが生まれ、話した本人にも聞いた本人にも化学反応が起こるような、そんな片鱗をみれた気がします。
べてるの家をあらわす言葉のひとつに「弱さを絆に」というものがあります。
精神疾患をもった人たちは、集中力や記憶力、根気が低下したり、幻覚に悩まされたりする苦労をかかえ、普通の暮らしをするにも健常者の何倍ものエネルギーを費やしながら、こうあらねばという理想との狭間で戦っています。うまくいかないと、人に認めてもらえない、つらい、という悪いスパイラルに入りこみ、なかなか抜け出せません。
それがべてるの家では、弱さを周囲に伝えることで、弱さを補う人が現れたり、方法が生まれます。3分しか働けない人も、計算できない人も認められ、できないことをできる人がやるかたちでバトンがつながるようなのです*。
これをべてるでは「弱さの情報公開」と言います。「弱さ」を情報公開することで助け合いが生まれ、「弱さ」自体が媒体となってみんなをつなげていきます。
これはべてるだけの話ではなく、わたしたちの社会も同じではないでしょうか。強さばかりを全面に押し出しあっても息苦しく、人間的な関係性が築きづらいです。弱い部分も知っているからこそつながれる絆は、自分の暮らしや仕事の中にもたくさんあるな、と思います。
後編では、べてるまつりの前日におこなわれた当事者研究集会のお話をしたいと思います。
スピーカーでフィンランドのケロブタス病院からいらした心理士のリーッカさんと、経験専門家のヘレンさんのお話に出た「オープンダイアローグ」の話題を中心にお伝えします。