2018年04月12日
ただ仕事するのではなく
お金で買えない何かを伝えたい
〜 interview 及川夕歌さん(ビデオディレクター)
モノサスとつながる方々それぞれの「モノサシ」をインタビューしている「めぐるモノサシ」。今回登場してくださったのは、ビデオディレクターの及川夕歌さんです。学生時代からNHKの番組制作補助としてキャリアをスタートし、 BS2「真夜中の王国」のディレクターを経て、2009年からフリーランスとして活動しています。
そんな及川さんとモノサスとは、畠中友香がインタビュー映像を中心とした動画の制作をお願いしているというつながり。これまでのキャリアでは紙モノのディレクションが仕事の中心で、映像に関しては素人だったという畠中は、現場での及川さんの仕事ぶりから多くのことを学んでいると言います。
先日も「なかなか過酷でした」というシンガポールロケでの時間を共に過ごしたというふたり。畠中は、改めて仕事を依頼する側と依頼される側という関係性を超えた濃いつながりを実感したとか。
そんな及川さんのルーツを探ることとなった対談を前後編に分けてお届けします。
(インタビュー構成:佐口賢作)
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及川夕歌さんプロフィール:
ビデオディレクター
学生時代、アルバイトで(うっかり)映像業界の制作補助に携わる。94年から、NHK−BS2にてディレクターとして本格的にテレビ番組制作に参入。構成・演出・撮影・編集のノウハウをみっちり仕込まれる。09年からはフリーランスとして活動。企業VPからコンテンポラリーダンスの映像制作、MVにいたるまでカテゴリーを問わず「映像で残す」仕事に携わっている。
直前までの雨がその瞬間だけ晴れ間に
シンガポールロケで発揮された神通力
畠中
シンガポールでのロケおつかれさまでした。夕歌さんが撮ってくれた画は、ステキで、しかも、晴れ女パワーすごかったですね。雨季のシンガポールで空港に着いたときも軽く雨が降っていて、港での外撮影は無理かも……と思っていたら、ロケの時間帯だけすこーんと晴れました!そして、撮影が終わった瞬間にスコールが(笑)。
及川さん
冗談で「外ロケで悪天候を晴れさせるのもディレクターの仕事だ!」とか言っていたけど、本当に晴れましたね。しかも、撮り終わったらすぐ降ってきたという。
畠中
あれは感動しました。
及川さん
でも、あそこまで雨がパッと晴れたのはNHK時代を含めても3回くらいしか経験していないかも。きっと、みんなでいいものを作ろうっていう想いが通じたんだと思います。
畠中
私は フリーランスのビデオディレクターの夕歌さんとしか接していないんですが、フリーになる前は NHK でディレクターをしていたんですよね?
及川さん
23歳から NHKの BS2の番組でディレクターを始めて、14年ちょっとで辞め、フリーになって今年で9年目かな。
畠中
そもそもどういう経緯で、NHKのディレクターになったんですか?
及川さん
上京して、アート系の学校に通いながら16ミリフィルムでコマ撮りのアニメーション作品を作っていたんだけど、本当に現像にお金がかかるんですよ。
アルバイトしないと制作できない状態になったとき、たまたま紹介してもらったのがNHKの制作現場の制作補助で。とにかく日給が良かったんですよ。当時で8,000円。
最初はお金に惹かれて行き始めたら、テレビの現場には全然見たことのないものがいっぱいあって。気づいたら、学校に行くより楽しくなっていたんですよね。
アンテナの感度のいい大人がいっぱいいて、触ったことのない機材があって、現場で起きることは知らないことばかりで、なんて楽しいんだろう……って。気づいたら3年近くアルバイトを続けていて、あるときディレクターが「及川は素質あると思うから、本格的にやってみたらどうだろうか」と言ってくれたんです。
畠中
それがきっかけに。
及川さん
そうなんです。ただ、私は堪え性がないので、「やっぱりダメだなと思ったら1ヶ月で辞めますっていうのもありなんですかね?」と正直に言ったら、ディレクターが「アリなんじゃない」と。だったらやってみようって、負けん気は強い方だったから、飛び込めたんですよね。
撮り方も、ナレーションの書き方も現場で学んだ
先輩に恵まれた新人ディレクター時代の思い出
畠中
最初にNHKに行ったときはカメラマンでも、ディレクターでもなかったんですね。
及川さん
ただのアルバイトですよ。でも、わりと手先が器用だったのでちょっとした小道具を作ったりして、重宝されていた感じです。正式に美術さんに頼むと制作費がかかるところが、アルバイト代で済むってことで(笑)。
そこからディレクターに声をかけられたという流れですね。当時は正社員ではなく、番組ごとの契約のディレクターがたくさんいて、私もチームの一員という形で契約してもらえた感じだったんですよ。しかも、BS2で最初に携わった「真夜中の王国」という番組は、10年続いたという。それはラッキーだったと思います。
畠中
ディレクターとして、最初から順調だったんですか?
及川さん
全然です。
例えば、ロケに行ってもどう撮ればいいのかわからない。すると、カメラマンは、「どうしたいの?」「どう撮ればいいの?」と聞いてくるわけです。もちろん、意地悪じゃなくて当然のことなんですけど、こっちは「いや……えっと……」と萎縮してしまって、「もー言ってくれないと撮れないよ」とイライラさせてしまい、こわーっとか。そんなやりとりで鍛えられていった感じです。
畠中
夕歌さんにもそんな時代が……。
及川さん
ありました。あの番組ではディレクターが映像に付けるナレーションの原稿も全部書いていたんですけど、最初は演劇作品を30秒で紹介するコーナーを任されて、短い中で起承転結をまとめて、いくつかのセリフだけは聞かせるという構成を作っていくわけです。
だけど、書き方を習ったこともないから書けない。まとめられないまま、朝までコースはしょっちゅうで。でも、必ず先輩が1人付いてくれて、編集室で雑誌の「ぴあ」とか眺めながら、“全然、俺、見ていないよーっ”て感じで離れたところで待ってくれてて。
それで、「できました」って見せると、「これじゃ、わからない。あなたは何を一番言いたいの」「ここは言いたいです」って伝えると、その文章を絶対に直さないで周りを直してくれるという。
どんなに稚拙な原稿でも「これだけは消したくない」と言うと、NHKは記者立場の主観を大事にする企業だったのでそれを生かすように修正してくれて。そうやって先輩たちに鍛えられて、徐々にできるようになったという。感謝しかありません。
畠中
自分でもカメラを回すようになったのはいつ頃からなんですか?
及川さん
元々はディレクターで、カメラを回すようになったのは時代の流れから。ソニーとかから放送に耐える映像の撮れる小さなビデオカメラが出てきて、制作費を落とすには「ディレクターもカメラを回すといいじゃん」と。
当時の制作費はだいたい1クルー1日15万円くらいだったんですよ。制作現場では毎日で何クルーも動いているので、けっこうな金額になりますよね。
例えば、誰々さんのライブが下北沢でありましたという情報を流すとして、1カメで撮るよりは2カメで撮影した切り返しのある映像の方が、臨場感が出るわけです。だったら、ディレクターが撮ってしまえばいいんじゃない、と。
最初はほとんどのディレクターが、ぶーぶー言っていました。給料が上がるわけじゃないのに、やらなくちゃいけないことが増えて。だから、わりとみんなイヤイヤ撮っていたんですよ。
畠中
それが今のスタイルにつながっているんですね。最初に夕歌さんのやり方を見たとき、びっくりしたんですよ。インタビューしながらカメラを回している!と思って。当時、夕歌さんがディレクターとして携わっていたのは、どんな番組だったんですか?
及川さん
NHKとしても実験的な試みのサブカルチャーを扱う番組で。ちょうどBS2の放送が始まったばかりで、当初は3時間くらいのプログラムをどう構成してもいいという自由な場だったんですよ。
各ディレクターが「こういう企画をやりたい」と会議で出し合い、1時間を3本ずつでも、30分を6本ずつでも、10分の短いコーナーを挟むような構成でもいい。扱うのはアート、ステージ、ミュージックなどの最先端ばかりで。気になり、引っかかってくれる人たちにはおもしろいと思ってもらえる。そんなサブカルチャーと、それに一生懸命取り組んでいる人たちを取材しては、放送に乗せていったんですよ。
畠中
すごくおもしろそう。
及川さん
でしょう。一般的な価値基準からすると無駄なものかもしれないけど、とにかくその時代の最先端に触れていることは間違いなくて、現場にいることがおもしろくなっちゃって。気づいたら14年続けていたという感じです。
テレビから流れる、お昼休みはウキウキウォッチング…
夕方なのになんでだろう? 情報格差を体感した子供時代
畠中
子供の頃からサブカルっぽいものが好きだったんですか?
及川さん
そもそも私は岩手県の出身で、実家は薬局をやっていて。長女だから、本当は継がなくちゃいけなかったんですよ。それで、高3まで真っ直ぐ継ぐルートで理系の学生だったんだけど、進路を決めるときに抑圧されていたものが爆発しちゃって。
元々、絵を描くのが好きだったこともあって、親に「家は継がん」「美術系、アート系のことをやりたい」と宣言して、大反対されることに。それでもアート系の学校を受験して上京したのが、18歳のときかな。
畠中
今に通じるパワフルなエピソードですね。
及川さん
でも、父はあんまり声高には反対しなくて……。「なんでかな?」と思っていたら、後々になって、父が昔、東京で出版社専属のスチールカメラマンをしていたのを知ったんです。それで、実家を継ぐ人がいないから強制的に帰郷し、薬剤師だった母と見合いで結婚したという。
たしかに家には現像室とかもあったんです。でも、父親からは写真のしゃの字も聞いたことがなくて。それがあるとき、おじいちゃんやおばあちゃんの遺影を掃除していたら、モノクロ写真に手作業で細かい修正が加えられているに気づいたんです。全部 父親が撮って、プリントしていたんですよね。ああ、やっていたんだなーって。
だから、私が美術系を目指したことにもあまり何も言わなかったんだと思うんですよ。気持ちはわかるということなのか。
畠中
やっぱり似るんですかね。
及川さん
かな?父も本音は私が店を継ぐのがいいとは思っていたと思うんだけど、まあ、
我が家のちょっといい話でした。
畠中
全然、知らないことがいっぱいだー。
及川さん
現場ではこんなこと話さないもんね。
ただ、母親は NHKで仕事をし始めても反対していました。今になると言い分ももっともなんだけど、当時は携帯もないでしょう。だから、「いつ電話しても連絡が取れないし、家にもいない。何をやっているのかわからない」「娘はわけのわからない仕事をしていて、結婚もしない」とボヤいていたみたい。
畠中
ちなみに、お母さんが納得してくれる日はやってきたんですか?
及川さん
これはどうして映像に携わることを続けてきたのかっていう話にもつながるんだけど、ある日、お母さんに「こういうおもしろいもの、おもしろい人がいて、それを伝えるための仕事をしている」「それはお金で買えない何かを伝える仕事なんだ」と説明したら、納得してくれました。
たしかに、仕事で給料はもらっていたけど、私の感覚としては「自分が体験したいことをやらせてもらって、たまたまお金をもらっている」感じだったから。
畠中
お金で買えない何かを伝える仕事って……もうちょっと詳しく聞きたいです。
及川さん
立ち上がったばかりの当時はもちろん、その後もBS2は地上波ではないでしょう。選んだ人しか見られないチャンネルで、ネットが普及する以前は特にそうだったと思うけど、地方で情報に飢えていた人が見てくれていたと思うんですよ。
私も岩手だったので、“都会で起きていることってどんなこと!?”と興味津々だったし。地方あるあるかもしれないけど、当時、岩手には民放が2つしかなくて、「笑っていいとも!」は夕方の16時くらいからやっていたんですよね。
私が不思議に思っていたのは、「お昼休みはウキウキウォッチング〜」って歌で。「夕方なのに、なんでだろう?」と。そしたら、いとこが「なんで夕方やっているの? それにこの回、見たことあるよ」と言って、放送自体が2ヶ月遅れだったこともわかってしまったという。
でも、子供心には重大事で「普通なことが普通じゃないんだ!」って感じだったんですよ。どうしてそうなっているのかは大人に聞いても誰も答えをくれないし、友達に言ってもおかしいとは思っていないし。
畠中
「お昼休みは」って言っているぞ!って食いつくのが夕歌さんっぽいですね。
及川さん
当時の思い出があるから、根底に「情報に時差があってはいけないし、正しいことを伝えたい」というのがあるのかもしれない。今はネット普及もあるから、地方でも情報の時差はないんでしょうけど、当時は切ないなって思っていたから。
畠中
そういう背景があって、情報を届ける側になっていったんですね。
及川さん
もちろん、たくさんの出会いがあって今がある。そのへんはすごく恵まれてきたなと思います。
流しでお風呂、会議で泣きながらの抗議
楽ではない仕事を続ける支えとなったのは?
畠中
だけど、14年間NHKで。ずっと続けていくって大変なことですよね。
及川さん
私の場合、性格かもしれない。積み重ねないと結果が出ないかなって。それでギリギリまでやった感じですね。
畠中
当時の制作現場の男女比って?
及川さん
例えば、20人のクルーで、女性は3、4人くらいかな。
畠中
あまり性別で分けるのは好きじゃないですけど、体力面とか、女性ならではの苦労はどうやって乗り越えてきたんですか?
及川さん
私は女性的な苦労、あんまりなかったかもしれないですね。
25、26歳のとき、ニューヨークロケで30分のコーナーを帯で4本作るというのをやらせてもらったんですね。それまで10分のコーナーとかしか作ったことがなかったのに、どうしてもやりたくて、手を挙げたんですけど。
無事ロケは終わったものの、仮編集がほぼほぼ死ぬ思いの状態で。当時はパソコンで映像編集なんて存在しないので、編集室を借りてもらうんですよ。結果、ほぼ編集室に住んでいる状態になってしまって。でも、お風呂に入りたい。だけど、家に帰る時間は惜しい。
畠中
ジレンマですね。
及川さん
それで、流しに入ってみたんですよ。
畠中
うわ、ガチで昭和のエピソードじゃないですか。
及川さん
やってみたら、あれ? けっこう深くない? 流しと思って。お湯も出るし、シャンプーもコンビニで買えるしって。そういうことがそれほど苦でもなくできたから続いたって面はあると思うんですよね。楽しい思い出です。今となっては。
畠中
ぎりぎりまで編集していたかったから……の選択が、流しで風呂。
及川さん
編集の要領を得ていないから時間だけどんどん過ぎていっちゃって。でも、締切は変わらないし、クオリティはある程度、担保しなくちゃいけないし。となると、どうにか時間を捻出するしかないでしょう。
実際、現場は女性にとって厳しい環境であることは間違いありません。でも、つらいのも楽しいくらいじゃないと、男女に限らずダメだったのかな。
畠中
夕歌さんなりのつらいときの対処法はあったんですか?
及川さん
ただの仕事じゃなかったのかもしれないんですよね。
私は映画を撮りたいと思ったことは1回もなくて、自分の中から発信するものはほぼないんですよ。人とか、物とか、私の目線から見たものでおもしろいなと思うものを伝達する役目がいいなと思っていて。
当時、アーティストや現代美術をやっている人ってすごくわけのわからないものを作っていて、でも、そこには意味があるわけじゃないですか。本人は「作品を見てくれればいいよ」と言うんですけど、意図を言葉にしないと伝わらない部分はあるはずで。
「美術手帖」みたいな雑誌に解説や批評がいろいろ載っていても、たとえ、30秒でも作った本人が映像で語ってくれたら、見る方もわかりやすいと思うんですよ。そこで、撮影に行って、口が重い感じのアーティストにと「ここはこう?」と聞き、語ってもらうのがおもしろかった。
だから、つらい以上に楽しかったんだと思います。
畠中
苦が苦ではなかった。
及川さん
きついときは何度もあって。演出とやらせの議論で会議で泣きながら抗議とか。ただ、女だからの弱さを出してやるのは間違いだろうなって思って。勝てないんだったら、負けだと思っていたから。戦いに近いですよね。
もしかしたら、私が作った映像によって、私みたいに岩手で「情報こないな」となっていた人が、「この人はすごい!」「この作品はすごい!」と思って、ちょっと覚えていてくれたらいいなって。
DVDとか、パッケージ物じゃなくて、テレビ番組は記憶にしか残らないものですから。それでも誰かの記憶に残れれば、それはすごくステキなことだろうなって。そう思いながら、やっていたのかもしれないですね。
(後編に続く)