2022年02月08日
「〝助産師〟は自分自身」
地域に根付いた助産活動と子育て支援
「ケアのわ」第1回は、2020年に私の第一子をとりあげてくれた助産師・田中佳子(たなかよしこ)さんにインタビューした様子をお伝えします。
このコーナーをはじめようと思ったきっかけは、自分の出産と子育て。まず、はじめての育児で驚いたのは、人間は生まれたあと、こんなにも誰かのケアを必要としているのか、ということ。保護者が必死になって世話をし、ようやっと生き延びることができるふにゃふにゃした新生児の身体。自分の親も祖父母も会社の同僚も友人も、どんな人も誰かにこんなにもケアされながら生き延びてきたのだと思うと、今更ながら驚愕します。
同時に今後も、老いや病気、不意の事故や災害など、さまざまな理由でケアをしたりされたりの人生が続いていくのだろうとも思うのです。ですが、多くのケアの現場は実際に当事者にならないと見えてこない部分も多く、〝自分の責任〟〝身内の責任〟といったように個人や家族の中に閉ざされてしまうことも多いです。
〝責任〟で語られる世界より、〝お互い様〟の世界の方が私は生きやすい、だからケアするされる関係性をもっと深堀したい、そんな思いからこのコーナーを立ち上げました。
初回は助産師の田中さんにお話を聞きます。助産師という職業のこと、田中さん自身の子育て経験からはじまる地域に根付いた活動のこと、田中さんのケア感について伺いました。
(2021.9.4 インタビュー)
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田中佳子(たなかよしこ)さんプロフィール
フリー助産師。看護師助産師歴29年。大学病院にてICU、看護学科教員など経験し、調布市で出張ケア開業。ゲゲゲの町の助産師会発足、出張母子ケアAmanmaを主催。産婆魂を引き継ぎ、女性と子ども、家族に寄り添い、地域に根付いた助産師活動を展開。また、クラニオセイクラルセラピーでの赤ちゃん整体や、子どもの運動発達、性教育など、子ども達の未来のためにも活動を広げている。
「救急医療が自分に合ってるんです」
助産師になるまでの話
中庭
田中さんは助産師さんをしながらも、子育て支援や地域活動もされていて、伺いたいことがたくさんあります。まず助産師さんとしてのお仕事について聞かせていただきたいと思います。
田中さん
助産師の存在自体知らない人も多そうですね。
中庭
私も出産するまでは全然知らなかったのですが、とにかくすごい。世の中こんな職業の方たちがいるんだなと。私がいた産院の助産師さんたちは若手の方たちが多かったと思うんですけど、頼りにしてました。
田中さん
産んだ方はみんなそう言ってくださって。助産師の存在って産まないとわからない方がほとんどなんです。
お産のときって危機的状況じゃないですか。危機的状況をサポートして寄り添う、寄り添われている実感は本当に大事で。人間の何か、触れ合いがありますよね、信頼関係が深まるというか。自然分娩だったら〝分娩1期※〟という一番つらい時に寄り添って励まして、なんとか自分の力で産めるようにサポートしていくのが私達助産師の力量です。
※分娩1期…10分毎の陣痛が始まり、子宮口が全開するまで。
我が子を取り上げてくれた田中さん
中庭
助産師さんにはどういった経緯でなられたんですか?
田中さん
高校生のとき、アフリカで助産活動してる人のドキュメンタリーをたまたま観て〝海外でこんな活動があるんだ、すごい!〟と感じたのがきっかけです。助産師になって発展途上国とか青年海外協力隊に行きたいと思いました。助産師になるには看護師の資格が必要なので、まず3年間看護学校に通ったんですが、すぐに助産師にならずに看護師として5年ぐらい脳外科とICU(集中治療室)に勤務していました。
ICUはやり甲斐があったのですが、必死の看護の甲斐なく亡くなる方も多くて。救命医療の限界を感じるうちに燃え尽き症候群みたいになって、一時看護の現場から退こうと思ったんです。ですが、助産師という夢も諦めきれず、産婦人科に移ったんですよね。
中庭
すぐ助産師さんになったわけではないんですね。
田中さん
本当に助産師になりたいかどうか確かめてみようと、看護師のまま産婦人科に入りました。それでやっぱりいいなぁと思って、助産師の資格をとったんです。その後大学病院へ戻って、またお産の現場で働きました。ICUでやってきたような救急医療が自分に合ってるんですが、産科も救急的なところがあって。
中庭
私の出産の状況を思い出しても、田中さんて追い詰められるほどエネルギーが湧いてくる印象があって、今のお話にも納得感があります(笑)。「救急医療が自分に合ってる」というところ、もうちょっと教えてもらえますか?
田中さん
自分自身が怪我をしたとか、そういう経験は全くないのですが、小さい頃から救急マニュアルみたいな本をよく読んでいました。どこでそうなったのか分からないけれど、危機的状況、例えばいざ震災が起きたときどう行動するかとか、常に考えているタイプで。
東日本大震災もそうでしたけど、ICUの時にも、明日、1秒先、何があるか分からないというのは感じていたんですよね。だから今を楽しく生きること、生き残るためにはどうすればいいか、ということは常に考えているかな。
特に災害については、なにか起きたときには地域で共助していかなきゃいけない。住んでいる調布市では、地域の災害対策の会長を2年務めたり、東京都助産師会の災害対策委員などもやっています。子どもを守るためには地域のことをしっかりやらなきゃと。子どものいる家庭の防災講座も毎年開催したり、防災訓練や備えについても発信しています。
たぶん、全部子どもが教えてくれる
育児は自分と向き合うことから
中庭
助産師さんの仕事は、順調に続けてらしたんですか?
田中さん
29歳で助産師になって30歳で結婚し、32歳で子どもが生まれるんです。それまでずっと大学病院で常勤で働いてたんですが、もう子育てが大変で。大学病院もフルで働けなくなってしまいました。
中庭
そうだったんですか…。
田中さん
私は助産師だし、ある程度の知識はあったのですが、子育ては全く未知の世界。1人目だけのときはまだ大丈夫だったけど、2歳違いの2人目ができてからは育児ノイローゼか産後うつになるぐらい大変で。
それまでは自分が頑張れば結果を出せたし、子育てもそうできると思っていた。うちは夫も夜勤があったので、今で言うワンオペ育児だったんです。
ずっと外で仕事してきたのに、子育てで家に籠もることになって悶々とするし、〝私、子育てに向いてないのかも?〟とか、〝助産師なのにそんなこと思って…〟とか、すごく葛藤があって。〝助産師イコールちゃんとしなきゃ〟と考えてしまったんです。
田中さん
2人目が産まれたとき、上の息子は赤ちゃん返りがすごく、下の娘は夜泣きがひどくて。娘の夜泣きは小学校に入るまで続きました。授乳をしていた頃はおっぱいが欲しくて泣いているのかな?と思い、当たり前のように感じてたけど、授乳を止めてからもひどいし、保育園に入ってからもひどい。
それも普通の夜泣きというより、のたうち回る感じ。夜驚(やきょう)症?っていうぐらいひどかった。あやすと逆に悪くなるから、もうほっとくしかなくって。その後、娘が話せるようになってからいろいろ聞くと、保育園にストレスがあったり、怖い夢を見たりしていたみたい。敏感な子だったんですね。当時は理由が分からないから、いろいろ試行錯誤して、もう無理だと思ったんですよ。
中庭
無理…。
田中さん
娘を育てる私も無理。子育て放棄したくなって。夫に「私もう無理だから、あなたが育てて」と言って(笑)。ちょっと向き合えなくなっちゃった。でも逃げられないんじゃないですか、子育ては。
下の子は可愛いときもあるんだけど、感覚的に可愛く思えないときもあったりして。それを紐解くと、娘が無邪気にうちの夫、〝パパ〟に甘えてる姿に嫉妬してる自分がいたんです。
私の親は離婚してるのね、4歳ぐらいのときに。だから父親という存在が身近になかった。シングルで育てられて、父と会ってたけれど、そこまで甘えられるような状況じゃなくて。
何だろう、不思議な感覚で。私にはこういうことできなかったなと。家族というものに憧れて、結婚して家庭を持ったんだけど、私の中の理想の家族を自分が体験していない。父と母がいて甘えて、みたいなことが抜けているのね。
うちの夫は円満な家庭で育てられているから、甘えられたり遊んだり、自然に出せるんです。子どもの相手がすごい上手。私はそれもできなくて。子どもたちが父親に甘えたり無邪気に遊んでる中で、自分だけが1人で蚊帳の外にいるみたいな感覚を味わって。
娘と向き合わないといけないと分かってたけど、彼女が小学校1年生ぐらいのときに、私のことをすごい拒絶したんですよね。「死ね消えろ!」とか言うの。パパには言わないで私にだけぶつけてきて。そのうち娘の股関節が動かなくなってね。歩けなくなっちゃって、施術を教わっていた整体の先生に診てもらったんです。
その先生は内側、メンタルもみる先生で、娘を診て「この子はお母さんに対して本心で言ってない。それはあなた自身のインナーチャイルドじゃない?」と言ったんです。そこではじめて〝インナーチャイルド〟という言葉を知りました。深くカウンセリングしてもらったら、幼少期の自分は両親の離婚を自分のせいだと思っていることが分かりました。だから娘をどうこうするより、まずは自分自身を癒してあげた方がいいと言われて。
最初はピンとこなかったけど、幼少期の自分を想像して「あなたは全然悪くないし、大丈夫だよ」という言葉をかけてハグするイメージを寝る前に繰り返してたら、自然に涙が出てきて。隠れていた感情をただ受け止めるということを続けてみました。そのうち、娘が暴言を言うこともなくなった。結局、自分自身と向き合わないと駄目だったんです。
子育ては「自分の育ち直し」だと思っていて。我が子が成長していく度に、自分の過去を見させてくれているから、つらくなっちゃう人たちが結構いる。そこを出してあげると子育てが楽になる、ということを子どもから教えてもらってね。お母さんたちにも伝えていきたいなと思っています。我が子を愛せないと思うこともある、とかね。それは自分のせいじゃないし、そんな感情は当たり前。私もそういうことあったよ、と話をします。だけど結局は自分自身が気づかないと駄目なんです。たぶん全部子どもが教えてくれる。
中庭
学びが多いですよね。子育ての中で何か炙り出されるというか。子どもの成長をみながら、自分の子ども時代をなぞるというか、もう1回成長し直すみたいな感覚が確かにあって。私の娘は1歳3ヶ月なんですが、もう少し成長したらもっと向き合うことが出てくるんだろうと思います。
田中さん
育児が楽な人もいると思うの。何も手がかからないと言うんだけど、そういう人もどこかで
出てくるから、いつか子どもと向き合わないといけないと思うんですよね。それが思春期になるかもしれないし。
私は娘に早く自分の奥深い感情を出してもらって向き合うことができたから、今は中3なんだけど、そこまでひどい反抗期はなくて。逆に仲良くなって全て話してくれる。早い時期に子どもと向き合えた方が楽かなと思っています。
「子育てってこんなに大変なんだ!」
からはじまった、
地域に根付いた助産師の地道な戦い
中庭
一般的な助産師さんの関わりって、女性の妊娠から出産直後ぐらいまでのイメージです。でも田中さんの活動って、その後も続いているなぁと。地域で子育てサポートもされてますよね。
田中さん
地域活動始めたのは2011年ぐらいからかな。「子育てってこんなに大変なんだ!だったらもっと長いスパンで関わらないと」と思ったのがきっかけです。まずは自分が住む調布の助産師たちに声をかけて「ゲゲゲの町の助産師会」というのを立ち上げたんです。
田中さん
今メンバーは30人ぐらいかな。最近は感染症予防のために活動できないけれど、月1回の講座を地道に10年続けていました。助産師達はボランティアでがんばって。「ゲゲゲの町の助産師」ってネームもインパクトがあったのが、徐々に全国でも知られてきて。
田中さん
他にも地域活動として「赤ちゃん訪問※」も8年くらいやっていました。
※赤ちゃん訪問…子どもへの虐待や保護者の鬱の予防として、保健師や助産師が産後1ヶ月前後の家庭を訪問し、赤ちゃんの健康状態をみたり保護者の様子を伺う制度。
中庭
赤ちゃん訪問って昔からあるんですか?
田中さん
昔からある仕組みです。地域によっては訪問するのが民生委員だったり保健師だったりで、助産師が行くというケースがなかったりするんですよね。でも私達は最初の新生児訪問は知識と経験のある助産師が行くべきだと思っていて。助産師が行く自治体は増えてきています。
中庭
助産師さんに来てほしいですね。自分の経験談として、子どもが産まれた後、子育てについて分からないことだらけで。昔だったら地域に子育て経験者がいたり、おじいちゃんおばあちゃんが身近にいたりで、相談ができる人もいたんでしょうけど、今って孤立しがちだし、特にコロナで子育て勉強会も全部なくなっちゃって、聞ける人がいなかったんです。だから私にとって、助産師さんが唯一の頼りで。赤ちゃん訪問で来た助産師さんを捕まえて、事前に用意した質問リストから、あれもこれも聞いたりしていました。生まれてから1年間ぐらいは、助産師さんにアドバイザーとしていて欲しいくらいです。
田中さん
そのあたりの制度も地域によって全然違って。赤ちゃん訪問が1回じゃなく、6回まで使えますよ、という地域もある。産後ケア助成なども各自治体で違いますね。
地域ってすごく難しいところがあります。戦後GHQによって制定された「保助看法」ができてからは、〝地域保健〟って保健師が担うようになったんですが、それまでは地域に産婆さんがいて、産婆がその地域の母子や家族に寄り添っていました。
だから地域に助産師が出向くのは、昔ながらの子育てなんです。地域に根付いた産婆時代を、今の時代の人たちにも知ってもらいたい。私達が身近で寄り添うスタンスをどうにか仕組みとしてできないかと、行政の中にきちんと助産師を置いて欲しくてずっと活動してきました。
まずは児童館に助産師を置いてもらおうと行政に掛け合ってきたんです。児童館は産後、一番足を運びやすい場所だから。
中庭
そうですね。私も通っていました。
田中さん
だけど助産師という職業自体知られてなくて。「助産師ってお産以外何をやるんですか?」と言われて、「いやいや私達は女性の一生を支える役割があります」みたいなことをアピールしながら戦いました。そしてやっと今、児童館に助産師が入れるようになったんです。
「最初はボランティアで入らせていただくので、実際に良ければ仕組みを作ってください」と相談するところからはじめました。お母さんたちは助産師との信頼関係が出来てるから、初めて会った助産師でも安心感があるみたいで。反響が良かったので、〝月1回の助産師相談〟というのを事業化してくれて、今はちゃんとお給料をもらえるようになりました。全国で初なんです、助産師が児童館に入るのは。
田中さん
この10年間、地域に助産師がいるというアピールをし続けて、行政や地域の人たちに認知してもらえるようになってきました。助産師はみんな地域に出たいと思ってるんだけど、今はそれが難しい。病院に所属しないと働けないんです。私は出張開業しているけど、助産院としてお産で開業する人はもうほぼいないの。
中庭
そうなんですか。
田中さん
お産が高齢出産になってきているし、自然分娩も少なくなって、採算が合わないんです。嘱託医が見つからない問題もあるし。出張開業をしたとしても、お金にならないんじゃないかな。そうすると、みんなが病院勤務で生計を立てますよね。なので、助産院が絶滅危機なんです。もうちょっと国として開業助産師への助成があればいいんだけど。
ニュージーランドでは〝マイ助産師〟という制度があって、助産師が地域に寄り添っています。妊婦さんが「この助産師さんにみてほしい」と選べるんですよ。マイ助産師と一緒に病院へ行ったり、お産に立ち会ってもらったり。病院もオープンでね。助産師が自立しているんです、ニュージーランドって。
中庭
妊婦さんにとっても羨ましい制度ですね。
田中さん
ニュージランドでは医者と同等に、どこで働いても国からお給料がもらえる。その辺りの制度が日本と全然違います。
地道に10年間地域活動をしてきたけれど、限界を感じています。今はある程度、地域でお母さんたちに寄り添えているし、助産師たちも30人ぐらい集まって繋がることができ、助産師会を立ち上げた意味があったと思っています。だけど、私が理想としてた産後ケアセンターを作るところは、計画はあったんですが実現までは行ってないんですよね。
子どもの発達支援
感覚統合と外遊び
中庭
児童館以外にも、子ども園で子育て支援をされてますよね。
田中さん
地域に解放している子ども園があるんですけど、そこで助産師相談やりませんか?と言われて、週1回、おもに未就園児の0歳児を5年ぐらいみてきました。週1回のペースで継続的に関われると、私も子どもの成長過程が見えるし、お母さんたちとの信頼関係ができる。お母さん同士も仲良くなって。
そこで初めて0〜1歳児くらいの運動発達を見てきて、運動発達の過程に問題がある子が多いなと思いました。例えば、ハイハイをあまりしない子がいます。しっかりハイハイできれば体幹も強くなるし、歩くときも転ばないんです。住宅環境がハイハイができない環境だったり、抱っこが多い、なども関係してそうで。
それで私がやっているのが〝胎内からの発達講座〟。0歳児の運動発達※がいかに大事か知ってもらいたくて。
※0歳の運動発達…0歳児は、寝返り→ずり這い→ハイハイ→お座り→立っち→歩行 の順に運動発達があり、順序が大切。特にハイハイは 手足をしっかり使うので脳も発達する。
田中さん
あとは原始反射※1や感覚統合のことなども伝えています。今〝発達障害〟ってよく言われていますけど、ただ単に感覚統合※2されてない子どもたちもいっぱいいるから、まず運動をしっかりやれば変わるよ、と伝えたい。
※1 原始反射…赤ちゃんに生まれつき備わっている反射動作のこと。 参照:『原始反射とは?モロー反射・物を吸う反射・握り反射など』キズナコレクト
※2 感覚統合…五感などのさまざま感覚を交通整理する脳のはたらき。身体と脳がつながる時期(0〜7歳くらい)に発達する。
私が感覚統合とか原始反射に興味を持ち始めたのは、息子がきっかけなんです。息子が小学校低学年のときに友達に手を出すようなトラブルが多くなって。内気な子だったので、なんでだろう?と悩んでいました。
息子が3年生ぐらいのとき、私がある運動療法の講義を受けた先生に息子を診てもらったんです。すると息子にモロー反射と脊椎の原始反射が残っていて、その防衛反応として手が出たということが分かって。
じゃあどうすればいいか。もう1回赤ちゃんと同じような動きをしたり、足先手先をしっかり使う運動をして、感覚統合させる必要がありました。そしたら、だんだんと原始反射がなくなっていきました。なぜ自分の手が出るのか理由が分かってからは、息子も自分を肯定できたし、私も先生に説明できました。それから原始反射を勉強し始めたんです。
原始反射は大人も結構残っています。生きづらいとか、人間関係がうまくいかないとか、緊張しやすい人は、もしかしたら原始反射が関係しているんじゃないかと。だから五感を使うことが大事。0歳のときは0歳の運動の中で発達して感覚統合されていくけれど、それ以降はやっぱり外遊びがいい。今は自然の中での遊びができなくなってきてるから、「ともだちひろば」という活動をはじめました。
中庭
しばらくコロナでお休みされてましたが、これも行きたかったんです。
田中さん
2、3歳位の子どもが来ると楽しいと思いますよ。子どもたちは自分たちで勝手にいろいろ見つけて遊びます。私と一緒にやってる仲間にアウトドアとかサバイバルが得意な人がいて、のこぎりとかオノとかナイフの使い方とか、あとロープワークとかお父さんに教えたりして。
中庭
その仲間の方はどういう方たちでなんですか?
田中さん
震災後に「福島っこ」っていう活動をされた方がいてね。福島の子どもたちが放射能で外遊びができなくなったから、あきるの市にある生協がやっている農園に呼んで、まるまる1週間キャンプ合宿みたいなものを企画していたんです。私もボランティアで参加するようになって、そこでアウトドアとかサバイバルが得意な人たちと仲よくなりました。その人たちに、福島の子に限らず今の子たちは自然体験が少ないから、調布の里山で何かやって欲しいと持ちかけて始まって、今は4人ぐらいのメンバーで運営しています。
流れに任せるとか、手放すとか、
待つとかを大事にする。
中庭
お話を聞いていると、田中さん自身の出産や子育ての経験が次の仕事に繋がっているんですね。
田中さん
そう。どちらかと言うと私の中で助産師は、仕事というより、天命な感じなんです。仕事といえば仕事なんだけど。なんて言ったらいいのかな、私が生きていく中で、助産師は〝自分自身〟って感じ。人生そのものです。
中庭
これまで助産師さんは〝寄り添う〟仕事なのかと思っていましたが、田中さんのお話を伺っていると、そんなに寄り添ったりケアしてる感覚ではないのかもしれませんね。どんな感覚で患者さんやお母さんたちと一緒にいるんですか?
田中さん
クラニオセイクラルという整体の施術を10年ぐらい続けているんだけど、やり始めてから気づいたことがあって。私達医療者も含めて、ケアする人って、〝この人をよくしてあげよう〟という気持ちでやってしまいがちなんだけど、ケアされる側は圧を感じて気持ち良くないんです。それにこっちも疲れちゃう。力を抜くことが大事です。それがまた難しかったりもする。意識の問題だなと思って。
田中さん
私のやっている施術はお手当なんですが、本当に軽いタッチで、筋膜リリースみたいなんです。昔はよく、おばあちゃんやお母さんが、子どもがお腹が痛い時にお手当していたのと同じです。安心感があるんですよね。赤ちゃんや妊婦さんへもできるから、陣痛中もやったりとかね、ちょっと触れるだけで変わります。
それとケアしている時はとにかく意識を相手でなく自分に持ってくる。
中庭
どういうことですか?
田中さん
あんまり目の前の人の何かをどうこうしようと思わないようにして、まずは自分の軸をしっかり保つことで自分の体が整う。するとなんとなく相手にも通じるんです。下手に相手を操作するとこんがらがることが多くて、だから流れに任せるとか、手放すとか、待つとかを大事にする。ここ最近分かってきたことが多いですね。
中庭
前は少し違ったんですか?
田中さん
もっと入り込んでた。例えば産後につらいママがいたらしょっちゅう連絡してあげたり、手厚く手厚く、みたいな感じだったけれど、自分も疲れてきちゃうし、依存もされてしまう。お産の時も、本当につらいから依存してくるんだけど、産むのはあなたよ、というスタンスが必要なんです。ちょっと手放すというか。そういうことはしていますね。
中庭
手放すってときの距離感は、その人の様子を見ながら測るんですか?
田中さん
何と言うか、関わってきて、この人ちゃんと芯があって大丈夫という人は産めるって思えるのね。この人ちょっと弱々しくて、もう少し覚悟ができるといいなと思っても、お産時には今更無理じゃないですか。だったら、とにかく私自身がどっと構えていけばこの人もたぶん大丈夫だろうと。それはお産以外でも、どこでも通じるものがあるかな。
中庭
人との付き合い方なども?
田中さん
そう。変わってきた。ICUにいたときも、なぜか私ばかりが急変する患者さんが担当になるんです。お産のときも本当に大変な人が当たる。それって多分、私が助けてほしい人たちを引き寄せてるんだと分かってきた。
基本私って戦い続けるタイプで、〝常に修行しなきゃ〟みたいな感じで生きてきたから、大変なことが多かったんです。でも、それも手放したの。もう修行はいらないって(笑)。子育ても修行じゃない。まずは今を楽しもうと思って。
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インタビューを終えて
田中さんとの出会いは私のはじめてのお産の時。長く続く陣痛の中で身も心もゲッソリし、点滴を受ける始末、しまいにはお産を恐れて逃げたくなっていました。そしてようやく子宮口がひらきはじめ、さあ産まれるとなった時、たまたま田中さんがご担当の時間だったことは、本当に幸運だったと思います。産まれるまでの未知の世界の中、田中さんが力強く出産まで導いてくださったこと、感動とともによく覚えています。
「基本私って戦い続けるタイプで」と田中さんはご自分のことをおっしゃていましたが、私の印象もまさにそうです。病院で会うといつも試合を終えたスポーツ選手のような雰囲気で、エネルギーが溢れんばかりにみなぎって、このお仕事が本当に好きでいらっしゃるんだと感じたのを覚えています。その頃から私の中で、田中さんは〝スーパー助産師〟として君臨したのですが、子育て支援から防災対策委員長まで、幅広く地域で活躍されてきた田中さんの話を聞いて、「やっぱりスーパー助産師だ」という気持ちです(笑)。
田中さんの子育ての経験が、次の仕事につながっていくこれまでの人生を伺えたのも嬉しいです。人は何かを育てることで自分も一緒に育つ、そんなことを改めて感じました。
田中さんのケアの姿勢は「流れに任せるとか、手放すとか、待つとかを大事にする」という言葉に凝縮されていると思います。お母さんたちへも、子どもへも、もっと広い意味で「人」に対して、どうこうせずに「流れに任せるとか、手放すとか、待つ」。とても良い言葉だなと思いながら聞いていました。
今後も人生を楽しむ田中さんに、私もときどきご一緒して楽しめたら嬉しいです。ともだちひろばにも遊びに行きますね!