2024年12月16日
包丁を握ったこともない高校生が、24歳で社員食堂の料理長になるまで。MONOSUS社食研 総料理長・飯野直樹インタビュー(前編)
こんにちは、京都で暮らすライターの杉本です。
食欲の秋まっさかりの頃、満を持してMONOSUS社食研の総料理長・飯野直樹さんにインタビューをしました。
インタビューの場所は、飯野さんが立ち上げに携わり、現在も料理長を務める「九段食堂 KUDAN-SHOKUDO for the Public Good」。2022年10月から、「日本各地の小さな農家のオーガニックな産直食材を中心に、地域に開かれた公益食堂」としてMONOSUS社食研が運営しています。
食堂の営業が終わり、厨房が落ち着きはじめた15時。
珈琲を手に待ち構えていたわたしと山田真綺ちゃんの前に、「いい汗かいたなー」みたいな雰囲気の飯野さんがいつもの笑顔で現れました。そのときはまだ、めくるめく飯野さんの語りに翻弄されることになろうとは、我々は想像すらしていなかったのです。
好きな食べ物は「食パン」、嫌いな食べ物は「グリンピース」
杉本 実はずっと、料理人に聞いてみたい質問があるんです。初めて好きになった食べ物は?
飯野 えー......。幼稚園で「好きな食べ物」を聞かれたとき、「食パン」って書きました(笑)。「ろくなものを食べさせていないと思われる」って親が恥ずかしがっていましたね。パンが好きで、食パンは塗るものによって変化するから好きだったんですよ。
杉本 自分で手を加えたいという意思に料理人の萌芽を感じます。嫌いな食べ物はありましたか?
飯野 どちらかというと、子どもの頃は嫌いなものが多すぎて。小学校3年生で三鷹から所沢に引っ越したら、学校給食がおいしい自校給食から給食センターに変わったんですよ。それ以降は、休み時間もずーっと残って食べている人になりました。
杉本 味つけがイヤだったんですか?
飯野 味と、一番嫌いなグリンピースを克服するのに。先生の目を盗んでパンの袋に入れて、焼却炉係になって燃やしていました(笑)。
杉本 なんという策士......!はじめて料理したのはいつですか?
飯野 全然料理人を目指していたわけではなかったので、昼ごはんにインスタントラーメンを鍋で茹でてキャベツを切って入れていたくらいですね。おふくろは料理上手だったし、父親は社員食堂の会社の料理人だったし。うちのおふくろの料理はけっこう凝っていて何でもおいしかったから、特に何が楽しみというのもなくて。出されたものは残さず食べていました。ただ「グリンピースだけはイヤだ」と訴えていたので家では出ませんでした。今も好きではないですねえ。
マニュアル通りに生きるのは、俺はダメだ
杉本 料理人になるつもりはなかったと言われていましたが、なぜ料理の道に?
飯野 高校生のときにケンタッキーフライドチキンでアルバイトをしていたら、社員にならないかと誘われて。内定をもらって給与提示もされていたのに、入社2週間前に断っちゃったんです。「マニュアル通りに生きるのは、俺はダメだ」って。言われた通りのつくり方でずーっとやるのかと思うと、自分を出せないのがいやで。でも就職はしないといけないし、特にやりたいこともなかったから漠然と料理人かなーぐらいの気持ちで、父親に「今からでも間に合いますか?」と聞いたら、「いいよ。話しておいてやるよ」と言ってくれて。父親が勤めている会社に就職しました。最初に配属されたのは、大学の学生食堂でした。
杉本 まったくの未経験からいきなり現場に入られたんですね。
飯野 はい。キャベツをざく切りするくらいで、包丁もほとんど握ったことはありませんでした。調理師学校の一日体験に行ったんだけど、ずっと調理実習をするのかと思ったら座学もあるじゃないですか。高校で50分授業でも起きていられなかったのに、90分授業は無理だなと思って。父親に「調理師学校卒と高卒で扱いに違いはあるの?」と聞いたら、「特別、調理師学校卒の人間を重要視することはない」と言われたので、じゃあ行かなくていいかなと思いました。
杉本 料理が好きかどうかもわからないままにその世界へ飛び込んだんですね。
飯野 とりあえずこれしかないのかなと思って。その会社が良かったのは、全部手づくりだったこと。いろんな食堂でいろんな経験をさせてもらいました。漠然と料理の世界に入ったから、最初についた料理長が、すっごく怖くて厳しい人でよかったです。逆に、手取り足取り優しく教えてもらっていたらここまで伸びていないかな。突き放された状態で「食いついてこい」みたいな方が僕は合っていたんだと思います。
料理長は何ひとつ教えてくれないし、包丁の握り方すら「好きにしろ」って言われました。「これをやっておけ」と言われてできなかったら、もう何もさせてもらえない。味付けなんて、見ようとしたら体で隠して見せてくれないんですよ。なんとかこの人のためにできるようになりたいと思ったから、家に帰ってからひとりで練習していました。
破天荒な料理長のもとで修業を積む
杉本 家でお父さんに教えてもらうことはしなかったんですか?
飯野 しなかったですね。「そろそろこれをやれと言われるだろうな」と予測して、料理長がやっていたのを見よう見真似で練習して。「できるじゃないか」と言われたら認められたってことなんです。唯一教わったのはかき揚げだったと思います。「油のなかに指をつっこんで平らにしろ」って。
その料理長はほんと破天荒な人で。空手をやっていたから、休み時間に「スパーリングだ」って蹴りを食らったり。勤めはじめてすぐの頃に、包丁で指を落としちゃったことがあったんですよ。すると料理長がいきなりセメダインを持ってきて「血を止めるから」って傷口に塗られて、経験したことがないような激痛でしたね。
杉本 えっと、その処置はよかったのかな......?
飯野 まあ、血は止まったんですよ。ごはんを食べて仕込みが終わった後、角瓶が出てきて、どんぶりに氷を入れてビールで割ったのを全部飲まないと帰れない。そのときに説教を喰らうんですよ。「お前はな、あれがダメだ、これがダメだ」みたいな。一気飲みするから、あんまり覚えてないですけどね。早く帰りたいじゃないですか(笑)。
杉本 その方からすると、歯を食いしばってついてくる18歳の後輩が可愛かったんでしょうね。
飯野 「ちょっと昼寝していいよ」って言われることがあって。俺、ちょっと寝るのが苦手だから1時間くらい寝ちゃうんですよ。そしたら仕込みが終わっていて、「すみません」って厨房に入っていったりとか(笑)。そんなことばっかりでしたけどね。
杉本 ちなみに、その料理長のお料理はおいしかったですか?
飯野 なんでもできる人でした。夜のパーティがあるときは寿司も握っていましたね。腕がいいし、仕事はできるからそんなに理不尽さはなかったです。きげんがいいときは、朝9時に僕がフライヤーにいると「コーラ買ってこい」って言われるんです。そのときは「今日は一日平和だな」って思っていました。
ところが、そういう人だから数字の管理ができなくて。僕が入って1年後に、会社から減俸されて辞めちゃったんです。初めて焼肉に誘われたら辞める話をされて。僕も辞めようと思ったのですが、「お前は調理師免許を取るまでいろ」と言われて、本当に免許を取ってすぐ辞めたんですけどね(笑)。
電車の網棚で拾った雑誌で転職を決める
杉本 その後は、次の料理長さんのもとで仕事をされたんですか?
飯野 次の料理長が来たんですけど優しくて。「だめだ、これじゃ俺は伸びない」と異動させてもらいました。やっぱり、みんな父親と働いたことがある人たちなので優しいんですよ。いろいろと僕も、ね。やんちゃしていたので、会社の"問題児収容所"みたいな社員寮の食堂に行けって言われて。そこの料理長はパンチパーマで下町の神輿を担ぐような人だったし、先輩も怖い人が多かったから楽しかったですよ。
杉本 なんでそんなに厳しさを求めるんですか......。緊張感のある現場が好きなんですか?
飯野 若いときはそうでしたね。厳しい人だと粗相のないようにするから。かといって自分と同じように下を育てたことはないし、僕は質問されたら何でも教えちゃいますけどね。調理師免許を取ってその会社を辞めた後に父親が亡くなって。そろそろ就職活動しないとなーと思って電車に乗っていたら、ちょうど求人情報誌が網棚にあったんですよ。ほら、昔は網棚にいろんな新聞とか雑誌があったじゃないですか。
パラパラめくっていたら、ロイヤル株式会社と住友商事、アメリカのマリオット・インターナショナルが3社合弁で設立する、ロイヤルマリオットアンドエスシー株式会社(現・ロイヤルコントラクトサービス)の求人記事が出ていて。「すげー!大きい会社だ。行きてーな」と思って面接に行ったら、社長と意気投合して受かっちゃったんです。
杉本 そんなドラマみたいな展開、本当にあるんですねえ。というか、ここまでのこの濃ゆい話ってまだ3年分くらいですよね?
飯野 そうそう。3年半くらい。ロイヤルマリオットには、21歳から33歳まで12年いました。最初に入ったのは一日600〜700食くらいの社員食堂で、料理長のフライパンを振り方が芸術的だったのでそれだけは盗みました。その後にフランス帰りの料理長が来て、僕が「手づくりを出したい」って言ったら、「じゃあ全部変えようか」ってガンガン変えてくれてよかったです。
その人にはいろいろ勉強させてもらったし技術も教わりました。「本物を知ったうえで料理をした方がいい」と、一流と言われる店に毎月連れていってくれるんです。「麻婆豆腐なら陳建一を食べておこう」「京都の菊乃井で会席を食べてみよう」とか、毎月数万円使って食べに行っていました。でも、「このままついていたら、この人を抜けなくなるな」と思っていたところに、たまたま1年で一番業績の悪い店の料理長をやらないかって話が来て、これはラッキーだなと思って引き受けました。
杉本 やっぱり、試練が好きなんですね。
飯野 料理長になれば自由に食材も取れるし、自分で責任も取れるからメニューをどんどん手づくりに変えて行きました。生意気だったから、会社はその店を僕ひとりにやらせたんですけど、好き勝手にやっていましたねえ。
密度の高いお話、容赦なく繰り出されるパンチライン。一本の記事にまとめるには濃厚すぎる!というわけで、後編 へと続きます。料理人としての飯野さんのあり方、MONOSUS社食研を率いる荒井茂太さんとの出会いなど、この後も盛りだくさんですのでどうぞお楽しみに!