2017年05月18日
デザインで豊かな価値観を
-花森安治の仕事をとおしてみるデザインの役割とは-
デザイン部の榛葉です。
デザインの目のつけどころを執筆するにあたり、前回の記事を書き終えた後、次は何を書こうかと5ヶ月先のことを考え始めた。これまで幾度も初稿前になって題材に悩んだ経緯があり、次回のお題は早めに決めておかなければという思いから、リビングのソファーに沈みながら、自宅の本棚を眺めていた。
自分の軌跡とも呼べる本棚には、好きなものや学んだもの、関わったものなど、たくさんの本や雑誌が並んでおり、その背表紙ひとつひとつに思い出がある。そのアルバムのような背表紙の並びの中で、ふと目に留まったのが、雑誌『暮しの手帖』の編集長だった花森安治さんの作品集『花森安治のデザイン』だ。
その背表紙を見て、2012年に世田谷美術館で開催されていた『花森安治「暮しの手帖展」』という展覧会に、最終日にギリギリ滑り込んだことを思い出した。
それまで音楽イベントのチラシのデザインや、それらのイラストを描いていた私が、制作に行き詰まると、駅前の書店へ出向き、美術書やデザイン書を立ち読みすることがよくあり、その参考リストの中に花森さんの作品集が含まれていた。展覧会を観に行くまで、花森さんのことはあまり良く知らなかったが、画風がすごく好みで、自分の感覚と向き合うために、必ず手にとるオキマリの一冊。それが、展覧会へ足を運んだことがきっかけで、花森さんのイラストだけでない側面に出会い、感化され、『花森安治のデザイン』を本棚に迎い入れたのだ。
雑誌『暮しの手帖』との出会いは、
山間の日帰り温泉
花森安治さんへの興味の発端は、主催のイベント仲間と音楽フェスへ出かけた帰りに、山間の日帰り温泉へ寄ったとき。
田舎の温泉らしく、素朴な佇まいに、湯上りにお茶やコーヒー牛乳を飲みながら足を伸ばしながらくつろげる休憩用の広間があった。その畳の部屋は、殺風景でとりわけ特徴の無い部屋だったが、唯一違っていたのは、数えきれないほどの『暮しの手帖』が並んでいたこと。
おそらく100冊以上の歴代の『暮しの手帖』が並べられており、幾つかを手に取りながら、内容までは熟読しなかったものの、流し見で花森さんの表紙から始まり、装幀や挿絵にじんわりと温もりを感じ、古いものにも関わらず、とても新鮮な気持ちになったことを覚えている。
それまで『暮しの手帖』の存在こそ知ってはいたものの、それがどの様な雑誌なのかまでは知ることはなかったし、もちろん読んだことなども無かった。それが、一緒に来ていた友人が、所蔵の多さに歓喜しながら、花森安治さんについて熱弁している様からファンだということを知り、その熱弁を浴びているうちに、より興味を持つようになった。
一戔五厘の旗
花森さんの代表作で私のお気に入りに『一戔五厘の旗』という作品がある。
それは、大東亜戦争で従軍経験のある花森さんが、戦争を繰り返さないようにするための想いがしたためられた、庶民の暮らしを守ることへの意志が強く感じられる作品だ。
それまで旗について深く考えたことなどはなかった。その起源は、紀元前3000年以上にも及び、人類にとっても深い関わりのあるもの。私たちの身近にも、日本国旗や日章旗、校旗、大漁旗、軍旗など多くの旗がある。国や組織のシンボルであったり、遠くから見てわかるためのサインであったり、順位や成果を表す用途であったりと、それぞれ役割もあり、どれもそのアイデンティティを表すためのものである。
私がなぜこの作品に強い共感を覚えたのかは、主催していた音楽イベントのシンボルマークが旗であり、オーガナイザーが『一戔五厘の旗』という作品があることを教えてくれたからだ。
旗とシンボルマーク
これまでもものさすサイトで書いたように、20代は音楽フェスティバルを主催しながら、音楽やファッション、アートやデザインなどの中でも、特にサブカルチャーやカウンターカルチャーと呼ばれるものに没頭していた(音楽とデザインの話はこちら。音楽フェスを主催するようになるまでの経緯はこちら)。
25歳で始めた音楽フェスティバルも 5年ほど経過した時期に、一緒にイベントを企画する友人との会話の中で、いつしか次のステップへ行きたいと語り合うようになっていた。
その頃は手軽さが魅力で、1日限りの日帰りフェスティバルを開催してきたが、1日に詰め込めるコンテンツはかなり限られていることも感じていた。他の大規模、中規模の野外フェスティバルは、軒並み 2日間に渡ってキャンプインで楽しめる“お泊まりフェス”が当たり前の時流で、音楽以外でも楽しめる余白がたくさんあったことから、ステップアップするには、そうしたことも考えなければという案も上がっていた。
ちょうどその頃、友人が横須賀の大楠山の登山口で、無農薬農園を運営し、そこで獲れた野菜を使った料理を提供するお店をオープンする人がいることを教えてくれた。その広く森に囲まれた特別な場所で、2日間のフェスティバルをやらないかというありがたい話。現地下見を行い、その特別な場所に今までにない期待が芽生え、イメージが静かに加速し始めたのを思い出す。
場所と規模を照らし合わせ、ミュージシャンと飲食やクラフト作家の出店者、運営スタッフやその他のアーティストを含めて100人、お客さんは 1 日に300人は呼びたいということになり、これまでにない規模に胸が踊る。そうして、自分たちのイベントそのもののステップアップに合わせ、これまでの青い鳥のシンボルマークから、デザインをリニューアルしようということとなった。
私たちのフェスティバルのシンボルマークのデザインは、初回からオーガナイザーとして活動ていた友人によるもの。しかし、その頃には本業のグラフィックデザインの仕事の比重が上がり、イベント運営の活動は行っていなかったが、リニューアルの依頼を快く引き受けてくれた。
そして、しばらくして新しいシンボルマークが完成し、ついにお披露目となった。
私たちは、この旗のロゴにインスパイアされ、オーガナイザーは「ピクニックをもっともっと・・・」というコピーを、私はこれをもとにイラストを描きフェスティバルのフライヤービジュアルを、映像作家が旧シンボルマークから新シンボルマークへと移り変わる様をプロモーションムービー を作成し、新たなイメージで一歩をふみだすことになる。
旧シンボルマークから新シンボルマークへと移り変わる様をコンセプトに作られたイベントのプロモーションムービー
私たちがイベント開催に伴い常に考えてきたことは、「日常がより豊かな暮らしに」ということ。
最初は自分たちが楽しむことを目的とし、次第に仲間が増え、メンバーに家族ができ、子供ができ、イベントそのものの雰囲気も自分達と一緒にちょっとずつ大人になっていく。
それぞれに日常があり、フェスティバルのときだけ特別な感覚になれる。それが日常に対して、少しでも豊かな影響を与えるようなものであってほしい。それを言葉、ビジュアル、音楽、映像で表現した。工夫を凝らし、アイデアを盛り込んで、手に取るだけで気持ちが高揚するような作品を生み出す作家たちが集った。それを感じたオーディエンスも、何か特別なものを持ち帰り、それが少しずつ日常に落とし込まれながら浸透してく姿をイメージしていた。
そんな想いが集まって成り立っていたフェスティバルの軸と、『一戔五厘の旗』の「庶民」という表現が妙に重なり、共感したことが私と旗との距離を奇妙に近づけた。旗は、そんな「豊かさ」を求める私たちの象徴だったのだ。
デザインが作り出す
「豊かさ」とは
私は、デザインには二つの本質があると考えてきた。
一つは、物事をよりよく見せ、より人の目をひきつけること。
もう一つは、生活をより豊かで便利にすること。
両者共に作り手になる前から考えていたことだ。
実際にデザインの作り手に回ってみても、この本質の部分は変わらない。今回この記事を書くにあたり、改めて後者について考えさせられることとなった。
「豊かさ」とは何か。
Googleで検索すると下記のようにある。
ゆとりが見えるほど満ち足りた状態であること。
不足せず十分なさま。
のびのびとしたさま。
お金があれば選択肢が広がる。時間も節約できるし、多くの体験もしやすくなる。その反面、手間暇かけて選んだ物事よりは、それに価値を見出しにくくなることもある。そう考えると、結局は「何を求めるのか」ということが要だ。人が決めた幸せや贅沢を人並みに求めることではなく、自分がちょうど良いと思う基準をみつけ、それに対して選択肢をもち、そこから理想を形にしていけることこそが「豊かさ」というものではないだろうか。
戦後日本は高度経済成長期を経て、物のない時代から物があふれる時代へと変化してきた。便利な家電が三種の神器などとよばれ、普及し、一家に一台以上の自動車が当たり前となった。そしていつの間にか、それらに好みやセンスを見出すようになり、多少の見てくれや仕様の違いを自分の選択の個性として主張してきた。
そうして物が売れる時代へと変わっていくと、競合メーカーが乱立し、生産されるものも、多少の違いと価格の差で選ばれるようになり、そのものに込められた想いなど、それほど重要ではなくなっていったのではないかと思う。
近年になって、物が売れない時代へと突入すると、そうした消費だけの社会から、リサイクルやエコロジーという価値観が誕生し、新品が贅沢だという価値観よりも、ものを大切にしたり、使い回すことが付加価値となるような意識も当たり前となってきた。
物が溢れ、いくらでも選択できることに豊かさを感じてきた。さらにここ何年かは、ライフスタイルやワークスタイルそのものを自分で決め、可能であれば世界中どこでも生活ができるような開けた時代となっている。これほど豊かな時代は今までになかったであろう。
各々の価値観や基準、それに対しての自己実現こそが最大の功績として認められるような時代となった。だからこそ、その時に求められる豊かさの象徴や、更に先を見据えた豊かさや便利さの価値を作り、選択肢として人の意識に入り込むことができるものづくりこそが、デザインの本質なのではと改めて感じている。
花森安治の仕事と
戦後の日本のリアル
『暮しの手帖』は世界に類のない、企業広告を取らずに運営している雑誌だ。広告がないことへの意図は、紙面のデザイン性や、商品テストをする際の内容の掲載への影響など、それぞれ。さらに、花森さん自身が、編集から装幀、表紙のデザインから写真撮影まで、一人でこなしていたということにも驚かされる。
『暮しの手帖』は、戦後物資の少ない時代に、工夫とアイデアで庶民の暮らしが豊かになるようにという想いが込められ創刊された。
私はこれまでに大東亜戦争、太平洋戦争に関する書物、映画などを、深い興味を持って目を通してきた。その理由の一端に、中学2年生の時に読んだ『きけわだつみのこえ』という本、10代で訪れた沖縄のひめゆりの塔・平和記念館で感じたことが大きい。どちらでも、第二次世界大戦末期に戦没した日本の学徒兵の遺書を見ることができる。それまでの戦争のイメージは、戦車や戦闘機の兵器での戦闘シーン、原子爆弾の被害と悲劇、映画『火垂るの墓』や『はだしのゲン』を通して感じた無情さなど。しかし、それらの遺言を読んだときに、何万人が亡くなったとか、どんなひどい目にあったということよりも、人々の生活があり、家族があり、それぞれの想いがあって散っていったということを、よりリアルに感じたのだ。
戦後の日本は、そうして亡くなった人々の裏に、残され生活していかなければならない人々がたくさんいたはずだ。男手が少ない中で、女性が家庭や地域を支えるためにとてつもない苦労をされたことも想像できる。そんな時代だからこそ、花森さんは主婦を中心とする世の女性に、生活の知恵や工夫を伝えることで、少しでも豊かさを感じてもらおうと紙面で伝え続けたのではないだろうか。
花森安治の仕事に通じる
これからのビジョン
今回のテーマを決めた後に、世田谷美術館で『花森安治の仕事―デザインする手、編集長の眼(2017年2月11日~4月9日)』という展覧会の開催を知り、不思議な縁だと感じたこともあり、ぜひ改めて見に行きたいと考えていた。しかし、今年に入ってから自宅の引っ越しの計画があり、週末は新居探しに明け暮れ、気に入った物件がようやく見つかってからは、具体的な引っ越し計画を進めるにあたり、都内まで展覧会を見にくる余裕が全くなく、3月中旬の時点でほぼ諦めていた。
結局展覧会には滑り込むこともできず悔しい思いをしたが、編集部の大村が記事に書いたように足を運んでおり、展示の図録を貸してもらうことができた。その図録を眺めていると、花森安治という人のものづくりに対する考えと、その源流である反骨精神に改めて感銘を受ける。
『暮しの手帖』も“ものさすサイト”も、数あるメディアの一つとして、価値観の共有場所となっている。これまではテレビやラジオのチャンネル、新聞や雑誌のカテゴリーが価値観と個性の源流であった。それが Webの時代が訪れたことで、ブログや Webサイトで簡単に個人が発信ができるようになり、SNSの普及で独自視点の情報が乱雑に拡散され、無責任に誇張されながら不安を煽ったりと、これまでにない情報の氾濫が起こり、真実は自分の外には一切存在していないと思うしかなくなっている。そうしてこれまで、同じ方向を向きながら議論されていた情報に対するマスの思考が、必要以上に俯瞰されるようになり、違うレイヤーから目撃した別の価値観によって、各々がフォローするメディアを選択するようになり、個人の考え方や小規模のコミュニティの結束を支えていると言ってもいいだろう。
そうして多様化した価値観により、個人には選択肢が増え、必要以上に困惑せざるを得ない状況だと感じている。だからこそ、本質を忘れず、できることを生かしながら、必要とされる何かを発信できないかと考えることが増えている。
デザインの分野にとらわれることなく、花森さんのように、自分が信じるより豊かな選択を世の中に生み出せるのだろうか。それがメディアなのか、イベントなのかはわからないが、デザインを有効に活用し、そうした機会を持ちながら生活していくことがささやかな野望だ。