2017年11月28日
「稼ぐ」手段としてのライターへの道
~interview 佐口賢作さん(フリーライター)前編~
今月のめぐるモノサシはフリーライターの佐口賢作(さぐち けんさく)さん。このコーナー「めぐるモノサシ」や「私、あなたの会社売ります!」のインタビューをまとめてくださっている方です。
普段はものさすサイトの影の立役者としてライティングのお仕事をされてますが、今回はインタビューされる側となって、表舞台に出ていただくことに。
ものさすサイトの「中の人」として、最初から溶け込んで書いてくださった佐口さんとは一体どんな方なのか、どんなことを考えてお仕事されているのか。お話を伺うべく、編集部の中庭よりインタビューさせてもらった内容を、前・後編に分けてお伝えします。
目次
前編:「稼ぐ」手段としてのライターへの道
後編:「しんどくても悪くないよね」を伝える記事を書いていく
- インタビューとカウンセリング、話の聞き方の違い
- 太くたゆたっている川で“しんどくても悪くないよね” という記事を書いてきた
- この稼業で、注文が途切れないように頑張りたい
- 佐口さんへのおたより
-
佐口 賢作さんプロフィール:
フリーライター/インタビューアー 92年より『月刊BIGtomorrow』(青春出版社)のデータマンとして、ライター業に入る。以後、人物インタビューを中心に、雑誌、書籍、Webサイト、広告制作などで活動中。また、ビジネス書、健康書を中心に年間7冊ほどのブックライティングも行っている。
佐口さんとモノサスの出会い
中庭
佐口さんとのおつきあいは3年ほど前にお願いした、某製菓メーカーのコンテンツ制作からですよね。記事の企画のために、弊社のキッチンで調理していただいたり…。
佐口(以下、敬称略)
あのとき、こんな静かにパソコン作業している人たちの裏でこんなにわいわい調理してていいんだろうかと思ってました。おもしろかったですね。
中庭
そのお仕事から少し間があいて、この「めぐるモノサシ」というコーナーのライティングを相談させてもらいました。
「めぐるモノサシ」は外部のライターさんにお手伝いいただいてたのですが、最初、自分自身のディレクションが未熟だったせいもあり、書き方もトンマナもクオリティも定まらなくて、毎回うーんとうなりながら進めていました。そこで佐口さんを思い出したんです。
お願いしたらとてもスムーズに進んだので、なんかもう、佐口さんをものさすサイトから離してはならない!となりました(笑)。感謝でいっぱいです。
佐口
こそばゆいですね(笑)。
最初中庭さんから依頼が来たときは、何すんだろうと思いましたけどね。
中庭
そうですよね。輪郭がなんだかよくわからないメディアで、たぶんライターさんも大変だったと思うんですけど、そこを佐口さんはすんなり受け入れてくださって。最初の記事からモノサスの中の人のように書いてくださったのが驚きでした。すっと中に入る力というか…。自然とそうできるんですか?
佐口
なんと言えばいいのかな…。今回中庭さんがもやっとしている何かが、感覚的なことのようだったので、とりあえずものさすサイトをよく読んでみました。
なにか…働いている人たちがいい方に向かっているエネルギーを、つなげていって増幅する感じなのかな、と思ったんですよね。それはかっこよくしたいという感じではなくて、生の言葉で話すとか、社会に向けて役に立てるとか、本人が活き活きと働ける状態をどうやって成り立たせているのかを見せていくのかなと。
どういう雰囲気の原稿が必要なのかな?と擦り合わせていく必要があるので、今回は比較的最初からうまいこと合致してよかったなと。初稿を出す時は、何年仕事していても毎回ドキドキしますね。
字を書くのはもうかるらしい…
湯河原での原体験
中庭
佐口さんがそもそも、物書きになろうと思われたのはなぜでしょうか?
佐口
栃澤さんのめぐるモノサシのインタビューで湯河原に行ったじゃないですか。その時、湯河原で育ったという話をしたと思うんですけど、母親が谷崎潤一郎さんの家で家政婦をしていたんです。潤一郎さんが亡くなられて、奥様の松子さんがいる家で、小学校3〜4年まで育ったんですけど、だんだん物心ついてくると、うちの親はこのおばあちゃんに給料もらっているんだなということが分かってくるじゃないですか。で、おばあちゃん何してるのかな?と思うと、たまに万年筆で何か書いているんですよ。エッセイとか書いていたようで、それが書き終わると、まだ昭和の時代ですから黒塗りのハイヤーで編集者が原稿を取りに来るんです。うやうやしく受け取り、去っていく。
おばあちゃん自体はそこまでではないんですけど、旦那様は谷崎潤一郎で、彼の原稿で中央公論のビルが建っているという、トップランクの作家さんなんですよね。
そういう構造がうっすら見えて、字を書くのはもうかるらしいと思ったのが、そもそもの勘違いなんですけど。
中庭
(笑)
佐口
まぁ出版の世界が割と近くあったのでイメージがあって、そのあとうちの母親の人生が紆余曲折していき、それに合わせて自分も紆余曲折していき…。
中庭
紆余曲折?
佐口
母はバツ2なんで、昼逃げしたり、いろいろあったりして、ひねくれてしまった10代だったんです。
で、高校を出るときに、進学するじゃないですか、大学行くか、行かないか。
それで、雑誌の仕事がしたいと思っていたのですが、受験勉強はしたくなくて、いろいろ調べていたら当時僕が憧れていた『LOGiN』というパソコン雑誌の編集部へ何人か就職しているらしい専門学校をみつけたんです。この学校に行ったら、なんとなくそっちの方向にいけるんじゃないかなと思って、入学しました。
それで、専門学校に行ったら書く授業がいっぱいあったんですけど、ある日「比較文化論」みたいなかっこいい名前の授業で、エルビスプレスリーのビデオを見せられて。これについて思うところを800字くらいで書いて出せと言われて、書いたら先生が前で読み上げて「なかなかいい」と。その時「いけんじゃねぇか」と思ったんですよ(笑)。
それまでは文章を褒められたことがほとんどなくて、読書感想文を書いたら、こういうもんじゃないだろうと、先生に本気で怒られるくらいだったんですけど、文章をきちんと書いて、それがおもしろいと評価してもらえて、クラスメイトからも「あいつやるな」となるのを初めて味わって、こういう形もあるんだと思いました。
自分が持っているスキルで、
いちばん確実に稼げる手段に出会った
佐口
その学校で出版業界に進める人数が毎年30人くらいだったんですけど、僕は団塊ジュニア世代で人間がわらわらいて、1クラス40人いるクラスが5つあるんですよ。
単純計算して入れないじゃないですか。すごい狭き門。
ぼやぼやしてたら学校を出ただけになっちゃう、ということが分かって、母子家庭なのでお金を稼がねばならんので、どうしたらいいのかなと思っていたら、今も仕事している『月刊BIGtomorrow』(青春出版社)の編集部で若い見習いみたいのを探していることをたまたま聞いたんです。「やりたいです」と言って編集部に行ったら、「2日後に取材に行ってこい」と言われ…。
中庭
2日後に(笑)。
佐口
それで、スーツを着て編集の方と東京医科歯科大学の睡眠の先生のところに行って、効果的な昼寝の仕方についての話を聞き、ドキドキして帰って来ました。記事は書かずに、文字起こしをアンカーさんと呼ばれるベテランのライターさんに渡すというのが仕事だったんですけど、それをやると400文字でいくら、という感じでギャラが支払われて。結構もらえるんだなと。文字起こしもそんなにひどいもんじゃなかったみたいで。翌月からも継続的にちょっとずつ取材先を増やしながら、やらせてもらいました。
同時に、アスキーから出ている『ファミコン通信』というゲーム雑誌をやっている編集プロダクションに学校の友達がアルバイトに行ってて、その子が、CDとかビデオの新譜を紹介する100文字程の原稿を20本くらい書く仕事をやってみる?って言ってくれたので、やってみたんです。編集の人もいきなり書けると思っていないので、厳しめのデスクの人をつけてくれたんです。で、その人がすごいいい人で。まだメールとかないので、書いた原稿をファックスで送るか、編プロさんのパソコンで書いて目の前でプリントアウトして出すかなんですよけど、渡すと個室に連れて行かれて、「全然ダメ」と(笑)。
中庭
全然ダメ、ですか。
佐口
100文字がすごい真っ赤になって帰ってくるんですよね。ひえーっと思いながら、直すと確かにこっちの方がわかりやすいなっていう、赤ペン先生みたいなことを3ヶ月くらいやってくれて。100とか120字くらいのちゃんと商品になる文を書けるようになったら、ページ単価でギャラをくれるようになって。それがまた2万円で4ページ、月2回出るので、18、9歳にしては結構いいお金じゃないですか。『BIGtomorrow』の仕事のお金も入るんで、卒業を前にして20万ちょっと稼げる状態が仕上がり、就職活動は一切してなかったので、行くあてもなく、そのままフリーランスになりました
「ライターになるぞ」みたいのがないままなったんですけど、仕事をし始めたら、やっぱりおもしろいんですよね。取材と称して、電話のかけかたもわからない若造にも、偉い人が話をして聞いてくれるし、新譜のサンプルでCDとかもらえるし。
自分が持っているスキルで、一番確実に稼げるところに早い段階で出会えてよかったなと。ちゃんと書くと、ちゃんとよかったよと言ってもらえて、それが印刷されて、本屋さんに並んでいるのが、すごく嬉しかったなぁ…。
前にAXSISの松野さんが「めぐるモノサシ」の取材で、はじめて自分がデザインした雑誌が書店に並んだとき嬉しかったって話があったじゃないですか。
中庭
ありましたね。
佐口
それはすごい、そうだなぁと思って聞いていて。はじめて署名記事を書いたのが、仕事を始めて5年後くらいだったんですが、超うれしかったですね。
中庭
ちなみに同じ書くでも小説の方にはいかなかったんですか?
佐口
小説家、かっこいいなと思って書いたことはあります。でも完結したことはありません。
裕福な家の子だったらいいけど、いかんせん、生活かかってるし、親にお金送らなきゃいけないので、無理でした。
あのね、そうそう…。こういう本も出しているんです。
中庭
『ぼくのオカンがうつになった。』*
佐口
この本におかんにふりまわされる半世紀…じゃない、30年のことが書かれています。
おかんとの30年間の葛藤
佐口
初めてひとり暮らしをはじめたのが25歳の頃。母親にお金を渡しながらひとり暮らしできるくらいの稼ぎが成り立っていたのと、うつだった母のことがちょっと重いから、いいかげん離れたいと思って離れたんですけど、離れたら引っ張り戻された、という話ですね。
2010年に、ちょうど『ツレがうつになりまして。』がヒットしてたんで、編集さんに「うちの親のうつも相当長くてしんどいんです。“ツレうつ”は配偶者の話だけど、親がうつだと子供は結構つらい、という話もいけるのでは?」と売り込んだんです。最初、文字だけで書かせてもらったら「重い」と言われ、コミックエッセイになりました。
中庭
お母様は別のところにお住まいですか?
佐口
はい、調布に。古いマンションも買いました。このままこの人は誰ともいないだろうし、仕事もしないだろうし、かと言って田舎に帰る気はまったくなさそうだし。賃貸に住まわせているよりは(笑)。
中庭
ずっと抱えていらしたんですね。
佐口
そうですね。常に、経済的にも行動の範囲も結構狭まるので、なかなかしんどいですね。
それでこの本を書いて、うつ問題をライターとして書いていったら、ジャーナリストとしての道がありえるかなと。
産業カウンセラーという資格も取りに行って、よしよしと思ってちょっとやってみたんですけど、すでに家族に一人いるのに、取材でまたそういう重い話を聞くとすごく疲れるという、当たり前のことに気がついて、スゴスゴと撤退しました。
中庭
それでも、何回かお仕事でやられたんですね。
佐口
医学書院という出版社が運営しているWebサイトでしばらく連載させてもらって、看護師の人とかに、同じようにうつ病の親を抱えた人向けの内容のインタビューをしていたんですが、なんかこれは違うなと思って。
中庭
違うな、というのは?
佐口
あの…気持ちが寄り添いすぎちゃって。お仕事というよりは、ボランティアみたいな感じになってしまうというか。取材してても、つらいなと。おもしろがれないんです。
あと、読者にどう展開していっていいか分からなかった。というのは、距離が近すぎるのかなというのがあって。やっぱりジャーナリストの人とかすごいなと、あらためて思いました。
ある問題があって、それを追及するために1年2年かけて取材して、本を一冊書くということをされているじゃないですか。大体ひどい話とかつらい話とか多い中、どうやって気持ちを切り替えて立てなおすのかなと思って。貧困問題を扱う方、戦場に行かれる方、未解決事件を追う方など、お会いする機会があるとつい「しんどくないですか?」と、つい聞いちゃうんですけど、対象との距離の置き方とか、訓練を積まないと身につかないみたいですね。
(後編に続く)