2018年05月24日
神山を特別な場所にしている言葉、
「やったらええんちゃうん」の正体を探して
〜 interview 大南信也さん(認定NPO法人グリーンバレー理事長)〜
今回のめぐるモノサシに登場するのは、大南信也さんです。
地方創生で活気づく日本の各地方のなかでも、モデル地域として注目され続けている徳島県神山町。そんな神山で、認定NPO法人グリーンバレーの理事長として町づくりの中心を担っているのが、大南さんです。
グリーンバレーは、「日本の田舎をステキに変える」を合言葉に、国内外のアーティストを神山に招く「アーティスト・イン・レジデンス」、仕事を持ったまま移住する逆指名制度の「ワーク・イン・レジデンス」、求職者支援訓練の「神山塾」、サテライトオフィス誘致など、アートや移住支援を軸とした事業を主に手がけています。
大南さんは、アメリカの大学院を出た後、地元の神山に戻り、家業である土木工事業の経営を続ける一方で、神山の未来を見据えた事業の仕掛け人となっていったのです。
そんな大南さんとモノサス代表の林が出会ったのは、2012年の秋でした。
神山の町全体に漂う独特の雰囲気、大南さんを中心とするグリーンバレーの人たちが発する「やったらええんちゃうん」という言葉。視察に訪れた林が大きな刺激を受けたことで、神山とモノサスのつながりは急速に深まっていきました。
2014年に2度目の視察メンバーのひとり、プロデュース部の真鍋が家族を連れて神山へ移住。新しい暮らし方や働き方を模索しながら、マイ・プロジェクトとして「Food Hub Project」を立ち上げています。
また、2015年からはグリーンバレーの理事でもあるリレイションの祁答院さんに支援をいただきながら、求職者支援制度の一環としてモノサス版「神山塾」をスタート。そこから多くのメンバーがモノサスに加わっています。
そして、2017年1月には運用チームが正式に神山サテライトオフィスでの稼働を開始。Webサイトの運用業務を行っています。
つながりが増すほど、「なぜ、神山にサテライトオフィスを構える企業が増え、移住者が定着し、次々と新たなプロジェクトが立ち上っていくのか」に「やったらええんちゃうん」が深く関わっていることが見えてきました。
今回のめぐるモノサシでは、林が聞き手となり、神山のキーマンである大南さんに「やったらええんちゃうん」の精神が神山にどのように根付き、広がっていていったのかについて深掘り。その模様を前後編に分けてお送りします。
(インタビュー構成:佐口賢作・撮影:生津勝隆)
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大南信也さんプロフィール:
1953年徳島県神山町生まれ。米国スタンフォード大学院修了。帰郷後、仲間とともに「住民主導の町づくり」を実践し、1996年から「国際芸術家村づくり」に着手。全国初となる道路清掃活動「アドプト・プログラム」や「神山アーティスト・イン・レジデンス」などのアートプロジェクトを相次いで始動。
2004年にNPO法人グリーンバレーを設立し、理事長に。移住・起業支援やサテライトオフィス誘致を推進。クリエイティブに過疎化をさせる「創造的過疎」を持論に、多様な人が集う「せかいのかみやま」づくりを進めてきた。
「Just Do It」=「やったらええんちゃうん」。
自分で決める、近すぎず遠すぎない距離感
林
僕は最近、改めて大南さんに聞いてみたいテーマが出てきたんですね。それが「やったらええんちゃうん」のルーツなんです。
大南さん
うん。
林
というのも、最近知っていいなと思った言葉なんですけど、フランスのジャン=ポール・サルトルという哲学者が「人間は自由の刑に処せられてる」と言っているんですよ。
大南さん
自由か。難しいな。
林
難しいんですけど、人は神様に自分の役割を与えられているわけではなく、自分の存在意義を自分で定義しなければいけない。でも、無限にある選択肢の中から何を選べば自分になることができるのかわからない。そんな自由の厳しさについて彼は、「自由の刑」と言ったと解釈しているんです。
そして、その厳しさ、難しさは年々増しているんじゃないか、と。例えば、モノサスを含め、働く人たちはみんな何のために仕事をしているのか、今の状態は本当に自分で選んだものなのか。無限の選択肢の中で、よくわからなくなってきている。
まさに僕自身もそんな状態に陥っていたとき、神山で「やったらええんちゃうん」に触れて、この場所に惹きつけられたのかなと思っているんです。
大南さん
なるほど。
林
神山で感じたものをベースにして、僕はモノサスで「マイ・プロジェクトを持とう」という話をし始めました。仕事に自分の思いを乗せたような取り組みです。その1つが真鍋太一を中心にやっている「Food Hub Project」(以下、フードハブ)で、他のメンバーもちょっとずつ動き始めていますが、なかなか広がっていかないんですよね。
だけど、神山では「やったらええんちゃうん」という精神の元で、次々とマイ・プロジェクト的なものが立ち上がり、広がっていっています。
大南さん
そうやね。
林
僕がサテライトオフィスを神山に作ったのも、会社のみんなを神山に近づけると、みんながマイ・プロジェクトを始めてくるんじゃないかなって。そんな予感があって神山に惹きつけられたんじゃないかと最近思っています。
というわけで、前置きが長くなってしまったんですけど、これが神山の「やったらええんちゃうん」のルーツを知りたいという理由です。
加えて、大南さんからどうしたら神山のような環境が作られていくのかを聞いて、構造化できる部分を取り入れていきたいとも思って今日ここに来ました。
大南さん
んー。
まず、「やったらええんちゃうん」って無責任な言葉なんよな。突き放しとるわけ。だけど、その突き放した感じが逆に今は新鮮に響くのかもしれないという気はするな。
調べれば情報はいくらでも手に入り、世の中が至れり尽くせりになり過ぎている中で、「あんたが勝手にやったら」と一歩引いて、でもサポートはしていくスタンス。これが何かを始める子らにとって、窮屈ではなく、自分の思いをストレートに出していけるみたいなところはあるんかな。
大事なのはすべて人間の距離感の問題だと思う。距離が近すぎれば、息苦しい。逆に、遠すぎれば疎遠になっていく。それぞれにとって心地よい距離感がとれる場というのが、案外少ないと思うんよな。神山は他所よりは、自分でその距離を決められる場になっとる気はするな。
林
そもそも「やったらええんちゃうん」という言葉自体はいつぐらいからあるんですか?
大南さん
これは方言だから、言葉自体はずっとあるな。
林
大南さんたちが使うような感覚で「やったらええんちゃうん」とみんなが言い始めたのは、いつぐらいなんですか?
大南さん
「神山塾」が始まったくらいからかな。取材を受けている間の会話のなかから出てきたような。元々、グリーンバレーにはグリーンバレーウェイと言って、2つの指針、考え方があったんですよ。
「できない理由より、できる方法を!」「とにかく始めろ(Just Do It)!」と。そのうちの「Just Do It」を神山弁に翻訳したらどのような言葉になるんかいな? と話しているときに、「やったらええんちゃうん」がぴたっときた感じやな。
ビジネスとして支えるネットワークがあるから言える「やったらええんちゃうん」。
失敗したら、それは「実験中」。
林
実際、神山に身を置いていると、「やったらええんちゃうん」が距離感として根付いていることを実感します。移り住んできた人に限らず、誰かが何か新しいものごとを始めようとすると、「やったらええんちゃうん」と突き放しつつも、神山の人たちはあれこれと絶妙な距離感で手伝ってくれます。
大南さん
例えば、「リヒトリヒト」の金澤くんから「神山でオーダメイドの靴屋をやりたい」と聞いたときは、どう考えたって「ええプランやからやったらいい」とは言えなかった。でも、彼には目算があって「これをやりたい!」と言っているわけや。
そういう他所から来た若い人たちの動きを止めずに、「やったらええんちゃうん」と小さく試す場を与える。
たとえ失敗しても、“失敗”というレッテルは貼らずに、いったん“実験中”ということにする。時が経てば事情が変わってまたうまくいくかもしれない。失敗を恐れて、あれはダメこれもダメと枠をはめてたら、想定可能でありきたりなことしか起こらない。
通常、よその地域では行政が補助金という形で事業を始めるためのお手伝いをする。僕らグリーンバレーは事業が始まった後、ビジネスとして回っていく部分でお手伝いをする。
例えば、金澤くんが靴屋さんをオープンしたら自分が顧客にもなるし、一方で「こういう店が神山にできたんですよ」とPRもする。行政のお金を使こうてどうのこうの動かす方式だけじゃなくて、ネットワークを使こうて物事を動かすことが実は最も重要だという感覚を掴んでいる人たちがコミュニティにおるってことやな。
林
ネットワークですか。
大南さん
そう。誰がどういう役割を果たしたら、それぞれのビジネスがうまくいくかっていうんを考えていく。立ち上がりだけをサポートするんやなしに、ビジネスとして回っていく循環を作り出すネットワークがコミュニティの中にあるから、「やったらええんちゃうん」が機能しているってことやろうな。
林
その「やったらええんちゃうん」を生かすネットワークは、大南さんが若い頃からあったんですか?
大南さん
ないよ。神山みたいな場所は、もともと保守的なところ。今まで行われておったことがずっと持続されていくのが、一番安心できる状態なわけよな。
林
アメリカから帰ってきた大南さんが作ってきた?
大南さん
アメリカから帰ってきて、「アメリカおもしろいところでなぁ」みたいなことばっかり話しよったら、必ず「あいつ、かぶれてきて」みたいなことになるんよな。だから、帰ってきてから何年間かは世の中がどういうふうに動いていくんかなっていうんを、田舎の社会の中から見ていたな。
目立ったら必ず「アメリカかぶれ」と言われるけん。うっとおしいやん、そう言われるのは。だから、とにかく仕事に打ち込みながら、田舎では、どういうメカニズムで物事が起こり、進んでいくのか。どういうときに新しい動きは潰されていくんかっていうんを、ずっとウォッチしていた。
結局、田舎っていうのは、窮屈な社会。窮屈な社会というのは、言い換えれば、隙間のない世界なんや。
林
隙間がない世界。
大南さん
新しいことをやりたいと手を広げても、「そりゃあかんやろ。昔から決まっていることあるやないの」と枠にはめられる。やけどもやっぱりこっちも若いから、こういう窮屈さは嫌なわけよね。特にカルフォルニアに2年おったわけで。すごい自由な街やん。外部からの制約が何もない。天気にしても4月の半ばから9月の半ばまではまったく雨も降らん。屋外の活動で中止になることもないやろ。すべてがプラン通りに動くような場所よな。
林
はい。
大南さん
そんな環境で、すごい羽根を伸ばしおったから、羽根を縮めた状態でずっといるのは、やっぱり苦痛なわけよね。だから、十分にマンウォッチングした後で、田舎の自分たちの周りにある枠を仲間とともに少しずつ押し広げ始めた。
自由に身動きがとれるようにぐっと枠を押す。すると、枠と自分の間に隙間ができるよな。この隙間に多少の自由度が生まれてくる。それを段々、段々広げていったわけ。
林
すごい。ちなみに最初の一歩はどんな行動だったんですか?
大南さん
最初の一歩目は、グリーンバレーの仲間である2人、佐藤英雄さんと岩丸潔さんと、とにかく海外へ旅行に行こうと話して、「でも、そのためには英会話をやらんといかんな」と。そんな理由付けをして、1981年くらいかな。神山町農村環境改善センターで英会話教室みたいなのを始めたんよな。
最初の生徒は、英雄さんと潔さんと、役場の何人かくらいで。1年後に「とにかく外に出んとわからんから」と言って、シンガポールへ連れて行った。今思えば、それが一歩目やな。
それからは毎年のように行き始めた。ハワイへ家族で行ったりとか。仲間はみんな新しいことが好きで、2週間アメリカにゴルフへ行くみたいなこともやりだしたわけ。最初、神山の人たちは15分、20分車で走ったら3か所もゴルフ場があるのに、なんでわざわざ飛行機に乗ってアメリカへゴルフにいう風に見とったやろうな。
林
当時の大人たちってどういう反応だったんですか?
大南さん
最初はなんか変わったことをする、変わり者という目で見るんやけども、変わったことというものが連続的に起こっていくと、それが風景化する。見る側も慣れてくるんだよな。ああまたかぁ、みたいな感じになっていった。
すると、特異なもんやと見えなくなっていくんや。じつは僕はこれが一番、コミュニティづくりに大切なことやと思っている。
当時で言うと、自分らが外に出ていくことで、周りをトレーニングしていたんだな。
神山が取った地域づくりの戦略は、
いきなり世界から人を呼ぶようなやり方
大南さん
その後、1988年くらいかな。オーストリアのウィーン音楽大学の学生たちが神山でホームステイをするという事業をやった。そのとき、それやったら英会話塾をやっているしということで、民泊は我が家でと手が上がり始め、学生たちを受け入れたんよな。
その頃は地域の人たちにとったら、いきなり外国人が来るわけで。最初は「言葉がしゃべれんけん」と敬遠する人も多かった。でも、1993年頃からは毎年、徳島県内市町村の小中高校に赴任する※1 ALTの先生たちの研修を神山で受け入れるようになったら、外国人も特異な存在ではなくなっていった。
集落に入り、一緒に酒を飲もうとやっているうち、慣れて風景になってくるんだな。最初は気になってたんが、気にならんようになってくる。そこで多様なものを受け入れられる素地ができる。そして、この多様性が今度は寛容性を育んでいく。
「まぁ、考え方は違うても、あんな人もおっても別にええよな」と。その積み重ねが、神山の雰囲気とか、土壌っていうんを作っていったんやないかな。
林
大南さんとしても少しずつ枠を押し広げていったわけですね。
大南さん
少しずつ田舎の枠を押し広げてそこに隙間を作り、自由度を確保していった。そしたら自分たちも、住んどる人たちも心地が良くなっていく。それに、僕らのような地域の人間が先に変わったヤツとして極端な例を見せとるから、後々、移住者の子たちが入ってくるとき、溶け込みやすくなったという効果はあったと思う。計算はしていないよ。結果としてね。
林
そういう意味では、昔の神山は他の地域と変わらなかったんですね。
大南さん
基本、変わらんと思うよ。保守的な田舎。
林
すると、そこでもう1つ疑問が。僕は今、サテライトオフィスのある神領からだいぶ離れた場所に家を借りているんですが、そこでも大南さんたちが押し広げた隙間と自由を感じるんですよね。一部の人たちの間だけでなく、神山全体にどう広がったのかが、不思議です。
大南さん
一人ひとりが少しずつ、毎年数名ずつでも変化していくと、それが10年、15年経過するとかなりな範囲に及んでいくとは思うよな。
例えば、「神山アーティスト・イン・レジデンス」を始めたとき、「あれ? おもしろいこと始まったな」ってやってくるのは、やっぱ東京の子なんよ。30代前後の東京の女の子が来てくれて、その子らが「神山おもしろかったよ」と話してくれる。そうやって3人、4人の違う情報源から神山のことを聞いた人が、次に「だったら行ってみよう」と動いてくれる。
情報の伝わり方というのはそういうもので、当初、地域の人は「なんか変わったことをやっている」と眺めているだけ。だけど、例えば徳島市内にある親戚へ法事なんかで行くと、周りの人から「この頃、神山すごいな。テレビにいっぱい出よんね」て言われる。そこで初めて、「あれ?」と思うんよ。近ければ近いほど、情報が伝わるのは遅い。でも、変化は確実に広がっていく。
林
おもしろい。
大南さん
地域づくりの戦略として神山が取ってきたんは、地方から地方にみたいな考え方じゃなしに、いきなり世界からアーティストを呼ぶというようなやり方。これはある意味ええ方法で、極端なところから流れを作ったら必ず国内にも伝わっていくんよ。
ましてや今はITの時代なんで、一番飛躍できるんは地方やと思う。情報を発信する手段がないがために取り残されていた地方が、一気にそれを乗り越えられる手段ができたわけだからね。
林
大南さんの中で、「そろそろもっと大きく手を広げていいかな」と思ったのは、いつ頃なんですか?
大南さん
常に枠を押し広げてはいたけどな。広げ方の基準が変わってきたのは、道路清掃活動の「※2アドプト・プログラム」なんかそうやな。
林
以前、伺いましたけど、アドプトの最初のエピソードは最高でした。
大南さん
最初、行政の壁が厚くてな……。
「道路美化への民間の協力は非常にありがたいが、スポンサー名の入った標識となると商活動での利用を禁じた道路法との兼ね合いもあり、難しい」とできない理由が次々出てきた。それなら、道路脇の私有地に立てるのはかまわないのではないかと代案を提示しても、検討しますの答えだけ。その後いくら待っても検討結果の連絡もこない。だったら、腹くくろうと。道路脇の私有地計8キロに無許可で看板を出していった。
林
夜中に設置したんでしたっけ?
大南さん
いや、道路パトロールが休みの土日にこっそりと。法律は世の中を良くするためにあるはず。正しいかどうかの判断を行政ではなく、世に問うという強行突破。結局、県からは撤去してくださいという話がきたけど、居直って「撤去しますけど、撤去命令を出してください」と。で、命令が出たら、今度はマスコミを呼ぼうと考えていました。
僕らは自分たちの力で街をキレイにしようと、スポンサー名を入れて看板を立て、清掃活動をしているのに県は道路法に違反するからこれはダメだと言います。新聞を読まれる人、テレビをご覧になられる人がどう考えますか?って。涙ながらに看板を引っこ抜くところをマスコミに流してもらおうと考えていました(笑)。
林
どうなったんですか?
大南さん
県の方が親心で黙認してくれた。
「まあ、ええことをやりよるし、歩いている人に危害を与えるわけでもないから黙認しよう」という形になったようです。でも、僕らは「アドプトと言えば、神山」と連想してもらえるよう県内はおろか、全国へ展開していきたかったわけ。だけど、黙認のままでは全国展開はとうてい望めないわな。そこで、仕掛けておいた時限爆弾を使った。
林
時限爆弾。
大南さん
当初立てた7つの看板のうち3つは意図的に私有地じゃなく、道路区域に立ててあった。それを新聞記者にリークしたら、「道路区域内困ります。県が近く移設要請」という記事になり、社会面のトップを飾ることに。その頃には景色の1つになっていたから、地域の人の関心も高い。
そこから県との間に「できる方法」を探るテーブルが設置されて、1999年10月に『徳島県OURロードアドプト事業』が正式な事業としてスタートを切った。1つの基準になって、神山どころか日本全国広がっていったわけや。
林
枠をぐっと押し広げた感じですね。
大南さん
そんなふうに自分の責任の中で1つのモデルを作り、それを行政に見てもらうというやり方は今も変わらずやっているな。普通は提案書とかで紙に書いて説明するけど、やっぱり人間って「こうなったらこうなるんですよ」と言葉で言われても、なかなか信じられん。特に行政の人はリスクを避けたがるんで、そこはいろいろ考えて、先にモデルを見せてしまうようにしてきた。
1個の小さなモデルを作って、その周辺に起こる現象というものを先に見せたら「ああ、そうなんか」と腑に落ちる。百聞は一見に如かずなんよ。
物事にどう向き合っているかが届けば、反応する人は必ずいる。その人こそ神山が必要とする人
大南さん
神山のサテライトオフィスが全国で有名になる1つのきっかけになったNHKの番組があったやん。河原でノートパソコンで作業しながら、本社とテレビ会議をしているというシーン。あれを撮ろうと思いついたのはNHKのディレクターさんのアイデアやったけど、撮影は2012年。でも、あの河原には2007年からWi-Fiの電波を飛ばせてあった。
林
iPhoneの発売が同じ2007年ですから、相当早いですね。
大南さん
これも「やったらええんちゃうん」で枠を押し広げていったから。
当時、あの場所にWi-Fiの電波を飛ばそうと話をしたときも、行政からは「大南さん、仮に1万人の人間が神山に入ってきたとして、何人がノートパソコンを抱えて河原に来ますか?」と言われた。
僕が「10人くらいかも知れん。その内で、実際にパソコンを開くのは1人かもしれんな」と答えると、「1万人の人が入ってきて、1人しか使わんような設備は無駄だ……」と感じたようです。
ただ、僕らの考え方はそうじゃない。どういうことかと言うたら、Googleが本社を置くマウンテンビューでやっているのと同じようなことを神山のような、こんな日本の田舎でやろうとしている人たちがいるという情報に反応する人たちが必ずいる。そして、そういう人間こそ、神山が必要としとる人なんよ、と。
林
だから、「やったらええんちゃうん」と。
大南さん
今、ここで飛ばすWi-Fiの電波が誰かのノートパソコンに届く必要まったくなくて、そういう人たちに届いたら、ええ話や、と。
実際、初めて神山にサテライトオフィスを設置したSansanの寺田社長はある雑誌のインタビューで、「神山はSansanがこなくても、どこかのベンチャーがいつか必ずここを見つけたと思います」と言ってくれた。
これは「やったらええんちゃうん」で発信した情報が、僕らの必要としている人たちのもとに届き、その人らが行動に起こしてくれたっていうことなんよな。
世の中の人がとかくやりがちなのは、自分たちのことをみんなに知ってもらおう、物を買ってもらおうととにかく情報を発信してしまう。
でも、一番大事なのは情報の発信元がどういうふうに物事に向き合っているか。結局、時間はかかってもその姿勢が伝わったとき、自分たちが一番欲しいと願っている顧客が動いてくるという話なんよな。
ここをほとんどが勘違いしている。物事の価値は作り手が哲学を持っとるか、自分たちがどういう人かを伝えられるかどうかにかかっている。それがなければ他と差別化できんから、結局、埋没してしまうってことなんよな。
林
だから、2007年の段階で河原に Wi-Fi飛んでないとダメなんですね。
大南さん
そう。種まきがあったから、NHKの映像につながり、それがまた別の人たちを惹きつけてくれる。いたるところにいろんな種を蒔いとって、それがたまたまある時期、ある環境によって発芽するんよ。
その種まきがマイ・プロジェクトと言ってもいいかもしれんし、それを自分たちで続けてきたから、外から来る人たちに「やったらええんちゃうん」と言えるんやろうな。
後編につづきます。